修羅としての神名龍子伝

神名龍子女史http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/の評伝です。神名女史は、新宿の片隅にひっそりと咲くすみれの花のような、平凡などこにでもいる物静かな人です。

2007年12月12日

 

○護民官意識

神名龍子女史は、自分が政治や権力の中心になるということが出来ない人だ。元々優秀なのだから、大学に進学していればそれなりの企業に就職することもできたし、大学に残って学者になることもできた。警官としても優秀だった神名女史は、自分さえ望めばそれなりに出世もできただろう。
「知の人」である神名女史は、カルチャーセンターで哲学、特に現象学を学び、エドマンド・フッサールなどを研究する。
しかし、女史はただむやみに知識を詰め込むのではなく、自分なりの解釈を加えてそれらの本を読み、その中から、日本の「人々」に必要な理論を読み取ろうとしているのだ。   
国策にまで入り込むジェンダーフリー思想や、ラディカルフェミニズムの嘘を喝破するだけではなく、日本人が今後どのように生きれば幸福になる可能性を見出せるのか、女史は哲学から読み取ろうとしている。
神名女史にそこまでさせる情熱は、おそらく警察官だった時に培われた「護民官意識」なのである。
それじゃお前はどうして未だに思想なんかやってるんだと言われそうだけど(笑)、私の中にはかつて叩き込まれた「護民官精神」が残っているからだと思います。それで今でも時々、「警視庁を退職して、独立してフリーの警察官やってる」なんて冗談言ってますけど(中略) だからもし多数の人々が、このままでは明日の生活もわからないような状態に置かれて、どんな社会になろうと今よりマシだと思うようになったら、私も大塩平八郎のように(笑)、立ちあがるかも知れません。
だけど、そうでない限り、問題解決や改革の可能性込みでこの社会を守ることが、人々の生活を守ることだと思った。いくら説明しても、誤解したい人はするんでしょうけど(笑)、国家が絶対的な正しさを握っていて、それを守るのだということではありません。だからあくまでも「護国官」ではなく「護民官」です。(Visitor's Room・2003年10月6日)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/visitor/v03/v32.html
 
神名女史は、国家ではなく、この社会を構成する「国民」を守りたい気持ちがある。自分も民草の一部となって、同じ立場の人を守りたいと思う気概が、女史にはある。
神名女史は、書簡で
 
内務省というのは悪の権化のように言われているけど、実は明治初期の設立時に一番強い権力を持っていて、その後は権力が低下の一途をたどった役所です(笑)。そのために、昭和初期には軍部に逆らう力もなかった。現在の内務省の評判の悪さは、特高警察の評判の悪さに由来するのだと思いますけど、でも一方で、地方行政なんかでは県民を守って奔走したり命を落とした人もたくさんいるわけです。
だけど、厚生官僚はこの「護民官」精神を忘れて薬害エイズを引き起こしてしまった。今年5月の gid.jp のフォーラムの時に、薬害エイズの大阪HIV訴訟の原告団事務局長だった、家西悟代議士(民主党)とお話する機会があったんですけど、あの事件は、かつて厚生官僚と同じ内務省の系譜を引く役所にいた者としては許し難いと思う。「護民官」ということを思い出させなければいけませんよ。そう言ったんです。
既に「官」を辞めた私が「護民官」であり続けようというのは、見方によっては一種の「ドン・キホーテ」ですよね。それはわかってる。わかっているのだけれども、2つ見逃せないことがあって、ひとつは「護民官」であることを忘れた官僚の引き起こす災禍です。
もう一つは、現在のジェンダーフリーのように行政に入り込んで人々の「意識」まで制御しようとする動きです。(Visitor's Room・2003年10月6日)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/visitor/v03/v32.html
 
と述べる。現状のままでは、国策である「男女共同参画社会基本法案」によって、国民から「社会的な性別」が奪われ、文化としての男らしさ、女らしさが失われてしまう。また、専業主婦を冷遇する政策は少子化を進行させるので、育児や家事、人のために生きるという美徳が失われて国民の意識を荒廃させる遠因ともなる。
 
 神名女史の思想を元に現実的な施策がなされた例を紹介したい。
 2003年、新潟県白根市立茨曾根小学校校長の長谷川清長氏は、        
「男女混合名簿・(男児女児共に)さん付けにしない校長は女性差別。今は男女共同参画社会だ」ということに疑問を持った。
 
「(国会の会議録を見る)
 平成元年の国会では「男女別名簿はいつも、男が先、女が後だ。混合出席簿にできないか」その後の答弁は「様式はない」「一律の指導は不適当」「男女別か混合かは校長が判断している」。  
 男女共同参画社会基本法以前の十年も前から討議されている。では「別名簿は差別」を言い出したのは誰か。(中略)
(混合名簿の始まり)
高崎経済大学の八木秀次助教授は『誰が教育を滅ぼしたか』(PHP研究所)で、神名龍子氏はネット上で、フェミニズム・ジェンダーフリー・社会主義を論じた。これらを基底にしながら『男女混合名簿の試み・どうしていつも男が先なの』(新評論)から、起源と別名簿に対する認識を探った。
「昭和五十三年、日教組国立支部の婦人部が開始。今は日教組の運動。別名簿は常に男が先の差別を生む。社会は性役割分業の差別社会。学校は性役割の再生産工場。別名簿は男らしさ・女らしさの性役割に基づく社会化。性役割分業思想は男性優位社会を支える」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kongou-haisi/newpage13.htm)」
 
 長谷川氏は、「男女混合名簿・さん付け 廃止」というHPで、神名龍子女史のHPや八木秀次氏の著書などを参考にしつつ、ジェンダーフリー教育が性差否定(ジェンダーレス)につながるものだとして、それまでの男女混合名簿を廃止し、男女別の名簿に戻すことを実行した。
 この男女混合名簿は、従来の「五十音順で、男子生徒が先、女子生徒が後」という名簿は、男女平等の原理に反するということで、日教組が男女混合名簿を打ち出し、その後の男女共同参画社会法案成立によってこれらの計画が国策として是認されることになり、全国に男女混合名簿が広がったというものである。
 しかし、神名女史は、男女別の名簿は女性差別にならない、と論じた。
 
 上で述べたように、差異それ自体は、無条件になくすべき「悪いもの」ではない。たとえば、学校でいえば「学年」や「クラス分け」も一種のカテゴライズだが、これは「学校の秩序」や「教育の実践」という観点から必要なカテゴライズである。つまり、何らかの必要性に支えられていて、その必要性が妥当なものとみなされる場合には、その必要上から生じるカテゴリーもまた妥当なものである。したがって、そのカテゴライズのためにある差異に着目することも、また妥当とみなされなくてはならない。(中略)
 
 さて、「平等」には大きく分けて2つあるが、1つは日本国憲法第14条に定められる「法の下の平等」である。これはいうまでもなく「国家」の領域の問題である。たとえば、選挙のときに男性は2票投票できるが女性は1票しか投票できないとか、同じ交通違反をしたのに男性だけが反則切符を切られるというのは、「法の下の平等」に反する。つまり、特に定めがない限り、このような場合に性別(という差異)を持ち出すことは不当なのである。
 
 ここで重要なことは、このような近代概念としての「平等」が「差異のないこと」を意味するのではないという事である。「平等」とは差異があるにも関わらず国民としては同じ権利を持つということなのだ。たとえば、家柄などによる特権がないことや、宗教が違っても(ヨーロッパでいえばカトリックもプロテスタントも)「国民としての権利」は同じだという事である。
 もうひとつは「機会の平等」。これは「市民社会」における自由競争の重要な原理である。社会主義国と違って「結果の平等」ではないことに注意する必要がある。
 
 したがって、学校において男子または女子のいずれかが特権を持つということは不平等である。もちろんこれは男女別名簿の後先のような話ではなく、もっと具体的な利益の話である。たとえば、同じ学年なのに男女で授業内容のレベルが違うというような場合は不平等といえる。また、試験の点数などは自助努力による自由競争であるから、どちらか一方の性別にだけ点数に下駄をはかせるというのも不平等である。
しかし、男女別名簿を使っているとか、男子を「くん」、女子を「さん」付けで呼び分けるということが、どちらか一方の性別の具体的利益になるわけではない。したがって、これらが男女平等に反するということにはならない。繰り返すが、「平等」とはあらゆる「差異」をなくすことではないのだ。(ジェンダー素描90・学校の平等教育のために)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign90.html
として、平等とは差異があっても同じ権利が与えられると、「機会の平等」であり、男女の差異をなくすことではない、と論じた。
 
「男女平等教育をすすめる会」が編集した「どうしていつも男が先なの?(男女混合名簿の試み)」という本の中には、
 
子どもたち、特に女の子たちに自分の生活は自分で支えるという「自立」へ向けての手立てを何一つ行ってこなかったという反省のもとに、私たちはすぐにでも何かを始めなければという思いに突き動かされた。そして、まず気がついたことが、学校の中で女と男を分けないようにしようということであった。 
 
と書かれる。その結果が、男女混合名簿を採用することで、男子と女子を分けない教育をするようになった、とある。
しかし、学校教育は人生のほんの一部に過ぎない。社会に出て、就職、結婚などをすれば、男性と女性の性差から来る生き方の違いに、子どもたちはいやでも直面しなければならない。
そもそも、名簿を男女別にするのは、性差による差異を認めることであって差別にはならない。
本当に子どもたちが将来、社会で活動できるためには、人前できちんと挨拶でき、敬語を的確に使え、他人と衝突しないように自分の意思をきちんと伝えられるような人間に教育しなくてはならない。
このような地道な教育をせずに、形式的に名簿を男女混合にして「差別がなくなった」と喜ぶのは、教師の思いあがりである。 
しかし、日教組やジェンダーフリー推進派は、「男女の差異をなくすことが平等」という観点であり、誰も否定できないような「男女平等な社会を作る」という名目で、子どもたちの性差を否定したり、過激な性教育に走ったりなどして、いろいろ弊害があるとされる。
学校教育は、保護者の手が届かない部分も多く、教室で過激な性教育や性差否定の教育が行われていても、当の子どもたちにはそれを告発するだけの力はない。また、子どものいない人には、学校の現状がなかなか伝わらない。
しかし、次代を担う子どもたちを混乱させるような教育があってはならない。
ジェンダーフリーというものを「性差否定ではなく、個人差を肯定するもの」などと誤解する人が多いなか、神名女史の明確な思想が、多くの人の役に立つ場面があるのだと思う。 
護民官意識というのは、人々を守るという官の意識ということだが、神名女史は、セクシャルマイノリティへの差別や、あるいは新宿の女装系の店の人たちへの差別といった「狭い地域社会」でのみ、護民官意識を発揮しているわけではない。
神名女史には子どもはいないが、だからといって、専業主婦の生き方を否定し、家族制度を解消し個人単位で生きる社会を作るフェミニズムを放置するわけにはいかない。神名女史は、自分の狭い立場に固執することなく、社会全体のことを考え、国民を護ろうとしている。
狭い地域社会だけではなく、日本人として、国際人として広い視野を持って「人々のために」思索をするのが神名女史である。そのためには、時には女装して女性の立場に立って物事を考えてみることもする。
男女共同参画社会基本法案の欺瞞を突き、ジェンダーフリーの嘘を証明することは、一部のセクシャルマイノリティの人のためではなく、女性差別撤廃のためでもなく、日本人として、行うことである。
神名女史は、国際人としての感覚を持ち、日本人として問題意識を定義し、そして女装家として地域社会に生きている。
しかし、神名女史は、自分を民草の立場において社会と対する姿勢ゆえに、組織に馴染めず、警察官を続けることも出来ず、素浪人のように生きるしかなかったのだろう。
 
「女装が好きな自分」を貫いて自由に生きるということは、世間の理解を得られず、時として家族の縁も切られ、孤独に死ぬ可能性と背中合わせだ。しかし、「好きなように生きる自由」を選び取ったからには「野垂れ死ぬ自由」も付属品としてついてくることを覚悟している女史には、実際に死ぬことを恐れていない。
現に、神名女史は、バイク便での運送業を営んでおり、毎日が死と隣り合わせだ。
 
わたしは神名女史には、「死して後も魂が生きる」ことを望む。そのためには神名女史の思想を、多くの人に語り伝えなければならない。
吉田松陰は、「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」と言ったと伝えられる。
神名女史の思想を後世に残せば、神名女史は死して後も永遠の命を得ることができるだろう。思想こそは、人の心の中で永遠の命を持つものだからだ。

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