修羅としての神名龍子伝

神名龍子女史http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/の評伝です。神名女史は、新宿の片隅にひっそりと咲くすみれの花のような、平凡などこにでもいる物静かな人です。

2007年12月12日

 

○差別を乗り越えるために

セクシャルマイノリティの世界では、差別語とは何か、という議論が絶えない。差別語とは、たとえば、「ホモ、オカマ」などを指す。
かつて日本には雑民党という小党があった。その党首であった東郷健氏は、同性愛者や身体障害者への差別撤廃を謳い、「伝説のオカマ」とも紹介される人物である。
『週刊金曜日(ポット出版)』で、自称「オカマ」の東郷健氏を紹介するルポルタージュのタイトルが「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」となっていることに対して、同性愛者の人権問題に長年取り組んできた「すこたん企画」が抗議する、ということがあった。これをきっかけに、同性愛者の人たちの間で、「オカマ」という言葉は、差別語か否かをめぐっての議論が起きた。
オカマという言葉は、元々は、肛門性交を俗に「オカマを掘る」と表現することに由来して、男性同性愛者一般や異性装をする男性あるいは広義に女性を装う男性あるいは単に女性的な男性を指して言われる言葉とされる。
 神名女史は「差別語など存在しない。差別と侮蔑を混同するな」と語る。
 
しかしながら、「差別語」という言葉は存在しないし、そういう言葉は理念上においてのみ想定可能な概念に過ぎません。なぜなら、言葉というものはそれが使われる状況や文脈に依存して「意味」を生じるものなので、文脈や状況、相手を問わず、「言葉それ自体」に差別される「痛み」を与える機能があるということはありえないからです。
 したがって、「差別語」とは本来、ある状況や文脈の中で差別的機能を果たした言葉を、その場面においての「差別語」と呼ぶのであって、「ナイフ」のように、あらゆる人間に対し普遍性をもって「痛み」をもたらす言葉というのは、現実には存在しません。
 また、差別と侮蔑を混同すべきではありません。差別がしばしば侮蔑の形で行われるのは確かですが、「差別」やそれによる「痛み」と、その他の「侮蔑」およびそれによる「不快」や「怒り」を混同してはならないと思います。これをやると、「差別とは何か」という前提がなくなって、「あれも差別、これも差別」というレッテル貼りに終始するようになるからです。
 ここに、「オカマ」という言葉を言われて差別されたと痛みを感じる人がいる場合、「差別者=悪、被差別者=善という二元論が前提になりがちです。しかし、差別するほうが「オカマ=価値の低いもの」と思う時、被差別者も同じ価値観を差別者と共有しているものです。(ヒロイン8号より)
 
神名女史は、「差別する側が、オカマ=価値の低いものとするなら、言われて傷つく被差別者も差別する側と同じ価値観を共有していると語る。
神名女史にとっての「オカマ」という言葉は、「この世界で生きていこう」という決意を秘めたものである。「オカマ」という言葉には、辛いことがあっても店では笑顔で客をもてなす「プロ」としての意地や誇りがあるのだ、と語る。
 
ここで紹介したいのは、このママさんの別の言葉である。
「アンタね、オカマは笑われてナンボなのョ」
「オカマ」を差別語だと思う人には、この言葉は自嘲としか取れないのではないか。「オカマ」を差別語だと思わなかった私でさえ、実を言えば当時はそういう印象が強かった。
 
しかしこのセリフが出たのは、いわば営業指導の場面である。ただし、私はそのお店の従業員ではなかった(開店記念パーティーなどの時にお手伝いに行った事はあるが、その後もついに、そこの従業員になる事はなかった)。ただ、何かと親身になってくれて、当時はまだ「素人」だった私を、ほとんど身内同然の扱いをしてくれた。そんな中で教えられた「営業心得」である。ただし、この言葉の真価が理解できるまでに、私はその後数年を要した。
 
これは「覚悟」の言葉なのである。単にお店でのふるまい方というだけの話ではない。業界でやってゆくには「肚をくくる」必要がある。それが本当に理解できたのは、やはり実務の中での話であって、この言葉によるものではない。ただ別の店での仕事中に、ふと「アンタね、オカマは笑われてナンボなのョ」という言葉が頭の中によみがえって、「そうか、この事だったんだ!」と体感できる経験があった。
 
ただし、その体験が何であったかは、具体的には書きたくない。また書いても仕方がない。この「覚悟」を必要とする人は、それぞれ「自分の仕事」の中からそれを見つけ出さなくては、「自分の覚悟」にならないと思う。また、この「覚悟」を必要としない人には、そもそも説明しても伝わらない。だから、それはここでの問題ではない。
 
ここでいう「覚悟」とは、つらい事も含めて自分の選んだ道を自分で引き受けて行こうという、決意でもある。自分が選んだ道に対しても、またその道を選んだ自分に対しても誇りを持つ事、でもある。
ママさんは、これらの覚悟や決意や誇りを、「オカマ」の一語に込めていた。今ならそれが判る。(りゅこ倫・1999年4月16日・
「オカマ」は差別語か!?)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin49.html
 
神名女史にとっての「オカマ」は、差別語ではなく、むしろ「反骨」の心意気を示す言葉である。
 
神名女史はここでも、「オカマ」と言われてコンプレックスをもつ人たちの心理を分析する。
 
性同一性障害の当事者で「オカマ」という語を嫌う人は多い。より正確に言うなら「オカマと呼ばれること」を嫌う当事者は、間違いなく多い。まさに彼女が「自分に投げかけられると腹が立つし、本当にその人を殺してやりたいと思うほど、すごく腹立たしい」と述べている通りである。それは当たり前だ。性同一性障害の当事者、特に MtF の場合、性自認が「女」であり、なおかつ自分の身体が「男」であることを知っている。つまり、性自認が「女」でありながら「女」としての不完全性を持ち合わせていることを知っている。これが「引け目(コンプレックス)」になっているからこそ、そこを指摘されるときわめて敏感に反応してしまう。また、そのような指摘を受けることを極度に恐れてしまうのである。それは「自分という存在」を否定されることだからだ。
 
そして、これを長年続けていると、そのような態度は内面化(身体可)され、なぜ自分が「オカマ」という語からこれほどの痛みを受け取るのかということが、内省しにくくなってしまう。彼女が「基本的には感情的な話になってしまうので、『なぜ、それがいけないのか』といわれても難しい」といっているのは、まさにこの典型例なのである。この点、彼女は決して特殊な感性の持ち主なのではなく、性同一性障害の当事者の大部分が持つ(もしくは、かつて持っていた)感性を代表して述べているといってよい。
 
このような態度それ自体は「対抗主義」ウンヌンの問題ではなく、当事者個人の感性の問題である。性同一性障害の当事者の全員が同じ経験を持っていると言いきってしまっても、それほど不正確な表現ではないだろう。そして、このようなコンプレックスを克服してきた当事者と、克服できずにいる当事者がいるというに過ぎない。
 
「克服してきた」といっても、いかなる文脈で「オカマと呼ばれ」ても平気だという当事者は、私も含めて一人もいないだろう。そうではなくて、「オカマ」という語がいかなる文脈の中で、いかなる意味で用いられているかを冷静に捉えられるようになる、ということなのだ。この、「冷静に捉える」ということをもう少し詳しくいえば、たとえ直観的にでも「差別とは何か」が判るということでもある。逆にいえば、意味や文脈に関係なく、差別語とされている「ある語を用いる」ことが差別だと考えるのは、差別の本質を踏み外しているのである。
 
私の考えでは、「オカマ」という語をいかなる意味、いかなる文脈でも用いてはならないという「言葉狩り」は、差別の本質を踏み外した発想から生じているがゆえに、けっして差別を「解消」しない。それはただ、差別を「隠蔽」するだけなのだ。(りゅこ倫・2002年3月6日・続・「オカマ」は差別語か)
 
女装者である「自分」とは何か、と神名女史は自分を探求せずにはいられない。
これは、「生きるため」であり、「生きる」ということは「他者と共にこの社会を生きる」ということだ。
しかし、現代の社会では、「オカマ」として生きることは、少数派が多数派に差別されることとして論じられることが多い。また、フェミニズムでも、女性は男性から差別される存在として論じられるケースが多い。
神名女史は、「差別される」被害者として存在するのではなく、もっと違ったあり方で社会とつながる自分を模索している。
 
しかし、指先で突ついただけでは(目でも突けば別だが)、同じように誰もが痛がるということはない。もし、指先で突ついただけで痛がる人がいるとしたら、その部分に腫瘍でも出来ているのだろう。むろん、その場合には「そこには腫瘍があるから触れないでくれ」ということは出来る。触れなければ痛くない。それはそれで結構な事である。では本人は、その腫瘍をどうするつもりなのか。出会う人ごとに、「そこには腫瘍があるから触れないでくれ」と「触れ回る」のだろうか。そうすれば、いずれ誰もがその人に対して、文字通り「腫れ物」を扱うような態度を取ることになるだろう。それが望みか? その人にとって本当に必要なことは、腫瘍の治療ではないのだろうか。(りゅこ倫・真に差別を乗り越えるために)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin54.html
 
 わたしが神名女史に惹かれたのは、女史が自分の心の中の「触れられて痛む腫瘍」を抉ることができて、それを乗り越えて進むことができる点だった。それは残酷なことだろうが、それができる女史の残酷さが好きだった。
その主要を抉り出すことができ、見ろ、これが病巣だと。あなたがたの内にも、これと同じものがあるのだと言える人だった。そして女史はこれ以外に進む道を持たない人なのだ。
 
女装、トランスジェンダーの世界は、誰が誰を差別した、という話題には事欠かない。
 
1997年頃、「GIDに関する診断と治療のガイドライン」が成立し、GIDの人たちの治療方法の一連の流れが示された。さらに国会でGIDの「戸籍変更」法案を成立させる動きが起こった。
当時、その人たちとは別に、日本には海外でSRS(俗に言う性転換手術)をした職業的ニューハーフの人たちが大勢いた。
 
そんな中、あるトランスセクシャル(GIDなどを含む性の越境者の総称)の団体の会員の一人が、
「わたしたちは戸籍変更を経て社会的に認められた女性になりたいのだから、商売で女として生きているニューハーフとは切り離して活動したい。あの人たちは変態だけど、わたしは違う」などと発言することがあった。
 神名女史がその発言をブログで取り上げたところ、後日、この「ニューハーフ差別発言」は、ある特定の個人のものであって、当該団体の代表意思ではない、と団体の代表者から釈明のメールが届いたという。
 このメールには、この団体の集会に何度か来たら、実体がわかるのではないか、ということも書いてあったが、それに対しては、
 
(前略)私自身は「実際に見ちゃったら、どうなるか判らないよ」、「何を口走るか判らないよ」という人間である事も、あらかじめ含んでおいていただく必要があります(笑)。少なくとも、内容を知る前から敵か味方かを決めるという器用な事は、私には出来ません。(お龍さんの徒然草・1997年10月13日・この欄の7月8日付けの書き込みについて)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/diary/diary97.html
と書く。
 トランスジェンダーの世界は狭い。その中で堂々と批判をするのは、こちらも返り血を浴びる可能性が大いにあるが、それを恐れて差別発言に口をつぐむ神名女史ではない。
 
もっとめんどうな事には、私の中に「それを恐れてどうする、行け行け」とわめいている、修羅みたいなもう一人の自分がいて、たいていの場合こいつのいう事の方が正しいから始末が悪いんですね。
(中略)
以前【EON】でこの世界の内部からうける誹謗について「後ろから撃たないで」といった人がいますが、私は馬鹿だから、撃つべしと思えばどこからでも撃つし、反対にどこから撃たれる覚悟もしています。この10年ほどの間にいろいろあって打たれ強くなりましたし、私にとっては他人から撃たれる痛みよりも、自分で納得できないことをやってしまった心の痛みの方がつらいのです。もちろん「月夜の晩ばかりじゃない」事も誰よりも、よぉ〜く知っています(笑)
ただ、一つだけ注文があるとしたら、撃っても斬りかかって来てもいいから、私の周囲の人間を巻き込まずに、私を直接攻撃しなさい。それなら銃でも何でも持って来ていいから。という事くらいかな(笑)(お龍さんの徒然草1997年10月16日)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/diary/diary97.html
 
 わたしはおそらく、神名女史の中の「修羅」に惹かれて、この評伝を書こうと思ったのだ。修羅とは、阿修羅のことで、仏教では「戦闘神」、もしくは「鬼神」とされる。
 現代の社会では、女性や性的マイノリティの人々への差別を解消するあまりに、ひな祭りの見直しをするなど、行き過ぎた「悪平等」も見受けることがある。また、「奥さま」「主婦」「女優」という言葉も差別語とすると、言葉にはそれぞれ歴史的な背景があるのに、それを無視した「言葉狩り」が広がると、文化が失われることになる。
 現代日本の社会学は、ポストモダニズムだとか構築主義や、フロイトなどの精神分析の濫用などで、客観的事実や近代科学に基づいた事実認定などがなされない状態となっている。
その社会学を基盤にしたフェミニズムも、男女の差異を言語による構築物だとして、社会的な性別が肉体の性別を規定するなどと述べて、空想的フェミニズムになりつつある。
 
 しかし、差別語や、行き過ぎた悪平等を指摘し、見直すことは、「かつての因習的な差別を復活させること」と取られる面もあり、なかなか言い出せることではない。
 事実、神名龍子女史は、「女装家なのに右翼・保守派」として、批判を受け続けてきた。しかし、批判を受けながらも、男女の厳然たる違いを否定し、自然なあり方を否定する言説と闘うことは、自らの内面に修羅のごとき鬼神を養わなければ、出来ないことなのである。

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