いくら自由な社会だとはいえ、普通の人が女装することに対して、まだまだ奇異の視線を向ける人は多い。
「男らしさ、女らしさ」を文化だとみなして、ジェンダーフリー推進派を論破する神名女史は、「男は女装するものではない」という世間の常識とも闘ってきた。
世間の常識というのはどういうものかというと、例えば「死ぬのは嫌だ」というようなことですね。何故嫌なのかというと、まぁ、人それぞれの意見はありましょうが、それをはっきり言い切った人はいません。
その人の事情によっては「今はまだ嫌だ」というようなことはありますが、古今東西の人類に普遍的に当てはまるようなものとして誰もが納得するような説明をした人はいません。
そういう、どこに根っ子があるのか判からないようなものでありながら、古今東西の人類が共通して持っているような価値観を常識といいます。まぁ、それほど普遍的でなくても、ある一定の社会の中で無条件に通用する価値観が常識です。根っ子のないようなものですから、そのことに気がつけば否定は出来ます。「何故、男はスカートを履いてはいけないのか」というようなものですね。
そして、いくら否定のために力説しても非常に空しいというのも常識というものの性質です。このことは現在でも女装が、その「常識」からどのように見られているかということで判かります。逆に「何故、あなたはスカートを履きたいのか」といわれても、「常識」と同様に根っ子がどこにあるのか判からないので、相手を説得できるほどの説明が出来ないからです。条件が同じなら多数派が勝つのが当たり前で、これもまた「常識」です。スカートをめぐっての問題では常識の外にいるのに、その人もやはり、多数派が勝つという常識の中に生きているわけです。そういう場合には、自分も多数派に入ってしまう(女装をやめる)か、隠れ里に住む落ち武者のように多数派の目から隠れて生き延びるくらいの結末しか迎えられないでしょう。
しかし、戦い続けることもまた可能です。もちろん不利な苦しい戦いになりますからそれなりの覚悟を必要とします。その覚悟の度合とか、これまで戦って来た年数とか、その中でどれくらい善戦できたのかで、その人自身にもその人の周囲にも、はっきりと変化に差が出ることは当然でしょう。例えば最初に挙げたように、誰もが当たり前としているようなことを改めて考えてみるという習慣もその結果の一つでしょう。(神名龍子の著述・女装の精神誌3・小さな「常識」に縛られない)
男性がスカートをはいてはいけないのは、「常識だから。習慣だから。みんながそうするから」
という理由だけなら、それは一種の思考停止である。
社会は複雑なもので、細かい部分をいちいち考えていられないから、大局においては、「ここはみんながこうしているから、それに従おう」というやり方で何とかなるようになっている。常識というのは、その点では合理的に出来ている。
しかし、社会が複雑化し、さまざまな価値観が流れ込むようになると、「みんながそうしているから」「利害関係が無いから」というだけで深く考える態度を持たなければ、時として、たとえば、一部の急進的フェミニストたちが「男女共同参画社会基本法案」を国会に成立せしめるように、論理戦で勝ち抜きたい人が社会の流れを強引に変える事態を招くこともある。
「男性はスカートをはかないものだ」が当たり前なら、「男女は平等であるべき」ということも昨今では当たり前になっており、その「男女平等」の中身について深く検討することがなければ、男女の性差を無視した悪平等な社会の到来を招きかねない。
神名女史は、世間が奇異に思う「女装」をして女性として振る舞うことによって、男とはどういうものか、女とはどういうものかを考える。
また、「女らしさ」を軽視する風潮さえうかがえる昨今、女性のために、「女らしさ」の良さを訴える手段として、神名女史は女装をしている。また、女装することによって、「女とは何か」を確かめることもできる。女史は興味本位で「おかま」になったわけではない。
しかし、本質的に善であるが、現象的には必ずしも善に見えないものに対して、必要以上に警戒心を持つことは愚かでもある。なぜなら、社会には、本質的に悪でありながら外見上は善に見えるものがたくさんあり、そのひとつが、男女共同参画社会法案であるのに、そういう本当に危険なものを見逃してしまう危険性があるからだ。「女装趣味」は、なるほど多くの男性は持たないが、表面上のことにとらわれて興味本位の目で神名女史を見ることによって、逆に、本質的に悪であるのに表面は善を装う悪法が根絶できないことは、いかにも愚かである。
神名女史は、自分が学びたいことは熱中したが、関心のないことにはまったく興味を示さなかったようだ。
「なぜ」を追求する人間は、世の中のルールがすんなりと頭に入らない人に多い。だから大抵の場合、他の人から見れば「馬鹿」に見えるんです。私がそのよい例です。学校教育が頭に入らない劣等生で、図書館通いばかりしていて知識はそっちで仕入れました。そのために学校の授業などは、習っても判らない授業と、習わなくても判る授業の二種類しかありませんでした。ただ図書館通いのおかげで、自分で考える習慣だけは身につきました。私が中学・高校の時期に身につけたことといえば、それだけです。
割り切って(やや開き直りも含めて)いってしまえば、これは私のような馬鹿の特権です。自分が頭がよいと思っている人は、自分の理屈が間違っているとは考えないので、しばしば失敗します。そして自分が失敗したのは現実が間違っているからだと考える。しかし、間違っているどころか、こういう人が長生きできるのは、その「現実」が平和なおかげです。そういう人達は、乱世ならとても長生きできないでしょう。(お龍さんの徒然草・1999年8月26日・馬鹿の役割)
女史は元々聡明で頭の良い人だが、組織に馴染めるタイプではなく、どこか一匹狼なところがある。世間では進学校とされる高校に通学しながら、大学には進学しなかった。警察官として勤務したこともあるが、組織に馴染めず、退職した。会社務めも向く人ではない。
大学では、単発で講師を務めることもあるが、それさえ、組織にいたのでは雑用も多く自分の研究ができない、と省みない人だ。
神名龍子という女装名で勤務できた会社を7年勤めてから辞めた時、女史は自分を励ますように次のように書く。
これまで7年余に渡って勤めて来た会社を今月いっぱいでやめ、来月から転職する事になりました。またそれと同時に、これまで週末にアルバイトをさせて頂いていた新宿2丁目のニューハーフバー「花道」からも、同じく今月いっぱいで身を引く事になります。
(中略)
次の仕事に移るにあたって、ゲイバーでのアルバイトも終了して月が明けたら(つまり来週ですが)思い切って髪も切ろうと考えています。頑張って、仕事を探してお金をかせいでウイッグ(カツラ)を買わないと、それまでの間は男の姿のままです。
といっても、今の世の中には髪を伸ばしていても出来るようなアルバイトもたくさんありますし、別に髪を切らなくてはならない必然性はどこにもないのですが、人生の転機に当たって、一つのけじめや覚悟として自分に課してみようと決めました。覚悟といっても私自身は「悲壮感」は持っていませんが、これによって当分の間「緊張感」は持ち続けようと思います。
(中略)
「女装の精神誌」においては
『《上手さ》より《強さ》を』
と書き、その後「りゅこ倫」では
『自らに《弱者》のレッテルを貼るな』
と書いた私が今やるべき事。それは「出来ねば無意味」という前提のもとに、
『《強者》への意思』
を実際にお見せする事です。(お龍さんの徒然草・1998年2月25日・人生の転機に臨む)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/diary/diary98.html
神名女史は、警察官を退職した後、何度か転職を繰り返し、今はバイク便での運送業をやっているが、実質はアルバイターであり、本人曰く、「経済的には何度も危機に見舞われた」と笑って話す。バイクが壊れたら、修理費もかかり、不意の出費があるたびにいろいろ苦労も多い。
最近、午後に遠方への仕事が出ることが増えた。こういう仕事は、ないときは全然ないのだが、どういう巡り合わせなのか、続くときは妙に続く。高速道路をひた走って風を受け続けていると、暑さを感じないのがありがたい。
今日も帰宅が遅くなった。そのために帰り道が涼しくなるのはよいのだが、運転時間が長くなるので、首や肩、腕、背中などの筋が張って仕方がない。今日は家に帰りつく直前に、とうとう首筋に激痛が走った。(2007年6月20日のブログ)
先週バイクが故障したおかげで、代替の仕事でやたらと体力を使ったり、またもや不意の出費(修理費)が生じたりと、踏んだり蹴ったり。来月の給料日までまた耐乏生活か…。
バイクがない分、電車と徒歩での配達になるのだが、こんな時に限って暑さが戻ってきた。しかも先日は、仕事の終わり間際になって地方都市への長距離輸送。まぁ、ほとんどの時間は新幹線の中で座っているだけなんだけど、妙に疲れる。お土産はなし。というか、買い物をしていたら帰りの列車がなくなるところだった。
ようやくバイクが直ったのはよいが、まだ生活のサイクルは乱れたままだ。今日も仕事から帰ってから身体を動かす気にならず、ちょっと横になるつもりが、気が付いたら真夜中。
せっかくだからもう少し起きていて、その後で夕方まで寝て、夜のお仕事に行こう。(2007年9月22日のブログ)
神名女史の魅力は、こういう自由奔放で、他人の思惑をあまり気にしないで、信じたとおりに進む「破天荒な素浪人」らしいところにある。
しかし、神名女史は貧乏でやつれた人ではない。いつもおしゃれで、きちんと化粧をし、女らしい微笑を忘れない艶やかな人だ。
自分が果すべき使命を見出し、それに殉ずる人生は、値打ちがある。「使命」とは、誰にでも与えられるわけではないのだ。