フェミニズムの弊害

物質的条件に左右される人間というものを認め、それゆゑに、その物質的条件を変へてかかろうとする試みは、それはそれでいいのでありますが、他方、物質的条件に打ちかとうとする努力、愛情と信頼とをそれに優先しようとする努力、それがなければ、人間の敗北でありませう。そして、その努力は、人間関係の最小の単位である男対女、あるいは家庭を唯一の拠りどころとしなければなりますまい。(福田 恆存)

2007年12月25日

○文化軽視の風潮

 

 男性と女性とで性差があり、ものの見方が違い、視点が違っているからこそ、文化が芽生える。

フェミニズムではこれを敵視するので、まずは家事労働が槍玉に挙げられ、さらには、ひな祭りの否定にもつながるが、さらには、むやみな言葉狩りや、女人禁止の山にフェミニストが登ったりすることもある。ここでは、人間の生活に最も重要と考えられる、食生活の文化、言葉、伝統的な行事、の3つについてを検討したい。 

 

 女性の家事労働は単に掃除洗濯などをするだけではなく、地域文化の再生産という側面も持っている。その家庭独自の「お母さんの味」だけではなく、正月のおせち料理や、四季折々の行事をこなすことも、文化的な活動である。

 斉藤美奈子女史は、「物は言いよう」という本の中で、

「母の手料理なくても子は死なぬ」と題して、

 

(前略)「食の崩壊」に対する処方箋はひとつしかないだろう。「女よ家に帰れ」と呼びかけることである。現に現状認識を同じくする「保守系」のメディアや論者はとっくにそう呼びかけている。仮に食の伝承が「風前の灯火」だとすれば、性別役割分業を前提とした「近代家庭」がよくも悪くも解体されつつあるためだろう。

 六〇年代、七〇年代くらいまでの家事育児は非常な質の高さを誇っていた。それは家事の専門担当者(専業主婦)を家庭の中に一人確保できていたからだ。その頃の「愛情たっぷりの食卓」は主婦の奮闘努力に支えられていた。保守系論客がいう「家族崩壊の危機」はある意味正しいのである。

 しかしながら、いくら「あの日に帰りたい」と思っても、「あの日」にはもう帰れない。「時間がないから」「忙しいから」は理由の体をなしていないというけれど、主婦が主婦としての役割意識を失っていること事態が「近代家族の崩壊」を意味している。専業主婦さえ主婦の役割から「降りた」といっているのだ。これを解体といわずして、である。(中略)

 ひとつには、「食事の支度は妻の仕事」という長年の思い込みをやめることだろう。(中略)

 この際、ピンチをチャンスに変えて、家族が食事の支度に乗り出すこと。中学生以上の子にはよい訓練にもなる。(中略)

 もうひとつは、食の変化を変化として認めること。(中略)スーパーやデパ地下やコンビニに並ぶ惣菜の充実ぶりを見よ。新しい食材やインスタント食品の山を見よ。これもまた、かつての主婦が夢見た「家事の軽減」「家事の社会化」の一種なのだ。

 

と述べる。

 2008年、中国で製造され日本に輸入された冷凍食品の餃子に、多量の農薬が混入され、それを食べた人たちが入院する事件が持ち上がった。

 これは、輸入された冷凍食品や野菜は、必ずしも安全ではないことを裏付けたものであり、日本の食生活を根底から揺るがすものだった。この事件を受けて、中国からの輸入食品の消費量は少なくなり、家庭では餃子を手作りする人たちも増えた。

 スーパーのお惣菜は、食材の味が生きていないし、防腐剤の入ったお握りは、空腹を満たす分にはいいが、後味があまり良くない。防腐剤の入らない自分が作ったお握りとは、微妙に違う。インスタント食品の山を前にして「家事の社会化」を唱える斉藤女史は、味覚音痴なのではないか。

 忙しい成人男女がそれを食べるのは仕方がないが、味覚が発達しない子どもにインスタント食品を与えるのは、カルシウムやミネラルの不足を招くのではないか。子どもが料理をするにしても、親がしないことを、子がするとは考えにくい。

 電化製品の発達で、家事は合理化された。かつては着物や浴衣を縫うのは女性の仕事であったが、今は、衣服は工場で大量生産するものになり、手作りの服を着る人はほとんどいなくなった。

 しかし食事は、人間の健康を支えるものであり、食生活の乱れは、生活習慣病や、「カルシウム不足の切れやすい子供」を作るものである。

 

 フェミニズムでは、家事を無償労働とみなしているが、誰かがそれをしなくては人間の生活が成り立たないので、家事を社会化される社会をも視野に入れている。現実に、少子化のおり、多くの主婦がパート労働を含めた仕事を持ち、社会進出している中で、家事の代行サービスをする会社も現れてきている。 

 

 加納実紀代女史は、「働く・働かない・フェミズム」という本の中で

 

(前略)家事労働は労働力商品の価値形成にあずかっているから価値(交換価値)をもつ、もたないといった議論をしている間に、家事労働の空洞化がどんどん進行している。

アメリカほどではないにしても、家事サービスの「商品化」は最近この日本においてもすさまじい。家事省略化のための家庭電化製品に加えて、コインランドリーや二十四時間オープンのコンビニエンスストア、それにポルノグラフィ的性文化を利用すれば、主婦などいなくても労働力の自己再生産は可能になりつつある。

 

と指摘する。

 しかし、生活に電化製品が入って家事が軽減されたことや、ポルノグラフィ的性文化が豊かになって人々の行動範囲が広がったことと、家庭の重要さはまったく別個のものである。食生活とは文化でもあり、地域によっても郷土料理などがあったりする。添加物が含まれたコンビニの弁当は、主婦の代わりになるのだろうか。

 文化はお金で買えないもので、平凡な男女が一緒に生活する「家庭」という場においても、文化は何らかの形で存在するものだ。家事労働を蔑み、家事の外注や社会化を目指すことは、コストが高いだけではなく、貴重な地域文化を崩壊させることにもつながる。

 正月のおせち料理も、「好きではない」「時代遅れ」「スーパーは正月も営業しているからわざわざ作る必要がない」とする人もいるが、それは、家族揃っていわれのある料理を食べ、一年の節目を明確にすることそのものに意義がある。スーパーが正月もやっているから食べなくて良いというものではない。

 

上野千鶴子女史の「きっと変えられる性差別用語」では、

 

「性別は女」を強調する呼称や敬称、男性を基準とし、女性を亜流扱いする呼び名、名称。女は男とは「別の集団」に属していることを婚姻・世代・セクシャリティとからめていかにも自然であるかのように、わたしたちに認識させるのがこうした女の呼び方である。

 

として、「主婦」「女優」「おかみさん」「看板娘」「奥様」など、女性が女性の特性を生かして活動する場面に使う言葉でさえも、「男性寄りの視点」と見て、メディアでは、これらの言葉を使わないように呼びかけている。

 上野女史は、女性が差別されている「現実」があるからこれらの言葉を使ってはならないのではなく、女性が男性と違った集団に属していることを印象付ける言葉であるから使うべきではない、と述べる。女性の俳優を「女優」と呼ぶことは、尊敬の念はあっても差別などあるはずがないし、そこから想起されるイメージも豊かなものであるのに、性別に関係なく役者を「俳優」と呼ぶことは、おかしい。

 神名龍子女史は、それ自体が「差別語」というような言葉はない、と明確に言い切ったが、公共のメディアにおいては、古い言葉のすべてを残す必要はなく、明らかに人を蔑視する意味合いの俗語や隠語は、規制するかどうか検討しても良いとは思う。

しかし、女性差別が現実にあるわけでもないのに、男性と違う集団に属すと見做されるだけで、「女優」「女史」なども消してしまうのは、日本語の豊かさを打ち壊すことであり、言葉を粗末にしていることでもある。

上野千鶴子女史は、「嫁・花嫁」という言葉も、

 

嫁という字は、漢字の成り立ちから見ても「家の女」となっており、かつての家父長制度にもとづいた考え方を残している。そこには嫁の人格はない。

 

とする。しかし、本当にそうだろうか。

 結婚生活は、1+1は2ではなく、1+1を1にすることで、自分を0.5に削ることなく、自分を保ったままで、相手と和して暮らす「知恵」もまた、求められる。知恵を求められてこそ「嫁」であり、人格が無いということではない。人格を求められなければ、結婚生活が続くはずもない。

 自分を周囲に溶け込ませ、なおかつ自分を見失わないでいるような知恵も、「嫁」には必要であり、だからこその「家の女」なのではないか。女性ばかりがそのような知恵が必要とされることは、差別というよりは、女性がそのように生きてきた歴史があり、それが女性独自の文化を作ってきたのだ。

現実に「嫁」に対して、食事に差をつけるなどの具体的な「差別」やいじめなどがあったり、「嫁」を奴隷として扱うなどの事例があれば、その時は、それを無くすべきで、そうでなければ、すべてを差別語とすべきではない。

言葉は、時代によって自然と変っていくものだが、人為的に女性特有に使う言葉を闇雲に「差別語」とすべきではないと思う。言葉もまた文化である。

 女性の生き方を表わす言葉を差別語とするフェミストたちは、「女らしさ」を捨てた男性的な話し方をする人たちが多い。

 しかし、「女らしさ」とは、女性を差別するためのものではなく、生き方の様式であり、その様式に則って話せば自分の意思をかなり通すことも出来るものだ。「源氏物語」を読めば、女官たちが丁寧な敬語を使って、礼儀を知らない人などに対してかなり辛らつなことを語る場面もある。

女性らしい話し方をしたほうが、相手をたしなめるにも怒るにもかなり自分を強く打ち出すことができるのだ。「女らしさ」を守ってきた昔の女性たちは、この「女らしさ」という文化によって、自分の意思を打ち出すことが出来たのであり、「女らしさ」を使ってむしろ男性的な主張さえも出来たのだ。

しかし、主婦だの女優だのという単語を差別語と騒ぐフェミニストたちは、自分たちの力でこのような、「女らしさ」という文化の様式を使って自分の意思を通すことが出来なくなった分、本当は、昔の女性たちより弱体化しているのではないか。女性の社会的な権利が認められる現代、女性たちは逆に、権利ばかり主張しても実質的に何も得られなくなってしまったのではないか。

 

フェミニストたちが伝統文化を破壊しようとした例では、女人禁制の山に登ろうとした人たちがいたことが挙げられる。

2005年11月、伊田広行氏と数名の女性フェミニストたち、そして性同一性障害である人を伴って、

 

1 ・「大峰山」に女性が入山してはいけない理由をお聞かせください。「伝統である」という場合の、その伝統が作られた理由(なぜ「女人禁制」にしたか)を教えてください。文書があれば、それも教えてください。

2 戸籍上で男性から女性に性を転換した人は、入山してもいいですか?(中略)

18・ 山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

19・ 山の上で、マスターベーションをするのはいいのですか? また山の上にポルノ雑誌を持ち込むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

 

など卑猥ともとれる質問を羅列した「質問状」を提げて、女人禁制の修験者たちの聖域である大峰山への登山を強行したことがあった。

 

神名女史は、この件に関しては、

 

争いの原因は、利害対立である。だから、カテゴリー概念を否定してもそれは争いの本質的な解決にはならず、再び利害対立に根ざしたカテゴリー概念が発生するだけだ。争いの解決は、利害調停の原理を見つけること、それをよりよいもの、より現実的なものに鍛え上げて行くこと、これ以外にはない。

もちろん、性別というカテゴリー概念を否定して男も女も一緒に大峰山に登ろうといっても、それで世界が平和になる道理など、あろうはずがない。(中略)

「信教の自由」について述べておくと、近代社会においては、政治的「正しさ」は、宗教とは別物である。つまり宗教的「正しさ」によって政治決定がなされることがないのと同様に、政治的「正しさ」によって宗教を変えることはできないのである。

なぜなら宗教とは、それがいかに大きな教団を組織しようとも、基本的には個人の「内面の自由」の問題に他ならないからだ。つまり各個人が自分なりの「真」や「善」を追求する営みである宗教に対して、政治的「正しさ」が介入することはできない、ということ。

概して日本人は、政治的「正しさ」と宗教とを区別して考えることが苦手である。

(ジェンダー素描110・.大峰山「女人禁制」は人権侵害に非ず)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign110.html

 

と分析している。

男女の社会的権利は同権であるべきだが、男女のあり方をすべて同質にすることは、出来ないしすべきでもなく、この発想自体がとても無神経なものだ。無神経だからこそ、彼らは「男女平等」という名の下に、大峰山の地元の人たちの「信仰心」を踏みにじる行為をして、このような卑猥な質問状まで出しているのだ。

「男女平等」「男女同権」という正義のためには、卑猥な質問状を並べて地元の人の心を傷つけても良いとする、その左翼思想には暴力的な要素を内在している。

伝統文化は、単に「伝統」だから守るべきなのではない。

歴史の中で作られてきた男性と女性の分業体制こそが、産業や文化の根幹を成しているのであり、ここを見落としてはならないのだ。

それを、正義のためなら破壊しても良いとみなす思想こそ、暴力的である。

 男女に性差があるからこそ、文化が生まれる。女性だけが使う美しい言葉や女性らしい所作も、文化である。女性と男性は同質なのだとして、女性特有の言葉やしぐさや伝統行事などをいっさい無視することは、文化の軽視や破壊につながる。

 

 中国では文化大革命のときに、女性のたしなみである琴棋書画や料理などを「ブルジョア的」と捨てさせ、女性は男性と同じ衣服、判断力や決断力を男性並みにするだけではなく、言葉や行動、動作まで男性のようになることを求められた。その結果、礼儀作法を知らなくて当たり前で、人前で腕を組み、あぐらをかく、冷蔵庫を足で閉める、などの粗暴な振る舞いが目立った結果、このような女性は他国の人と接すると恥をかくことが多かったという。

 女性が男性に隷属することは行きすぎだが、人間が成長するために必要な「文化」そのものを否定したのでは、人々は粗野で粗暴な人間になってしまう。人を成長させるものが文化である。

 性差を認めないで、男女を同じ枠に押し込めることは、文化を破壊することである。伊田広行氏が、大峰山の地元の人たちに突きつけた無神経で卑猥な質問状こそ、彼らの粗野な感性や無神経さを表わしている。性差こそが文化の源であることを忘れてはならない。


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