

フェミニズムの弊害
物質的条件に左右される人間というものを認め、それゆゑに、その物質的条件を変へてかかろうとする試みは、それはそれでいいのでありますが、他方、物質的条件に打ちかとうとする努力、愛情と信頼とをそれに優先しようとする努力、それがなければ、人間の敗北でありませう。そして、その努力は、人間関係の最小の単位である男対女、あるいは家庭を唯一の拠りどころとしなければなりますまい。(福田 恆存)
2007年12月25日
主婦の「家事・育児・介護」などの労働を価値の無いものとして、少子化対策のもとに、国民が賃労働に従事することを目的とする男女共同参画社会においては、金銭至上主義が到来することが予測される。
なぜなら、マルクス主義フェミニストなどの左翼の人たちは、家族関係のように「愛情」で結ばれた関係であっても、経済論理をあてはめて考えようとしているからだ。
伊藤公雄・樹村みのり・國信潤子共著の「女性学・男性学」の第一章では、「女であることの損・得、男であることの損・得」と題して、
女であることで得をしたのは、「力仕事のときに手伝ってもらえる」にみられるように、体力的な「弱さ」などを理由に保護されたときに多いようだ。(中略)
女で損する例としては、まず、「就職しても単純作業・補助作業に限定される」「賃金・地位格差」があるなど、労働や社会参加における排除や差別の問題が挙げられる。(中略)
男性に男であるがゆえに「得」をしたことをきくと、「親からあまりうるさく言われない」「行動が自由である」「痴漢にあわない」「夜道がこわくない」「レイプされない」「門限がない」「冒険ができる」「トイレに並ばなくても良い」「生理がない」「出産しなくてよい」「妊娠の恐れがない」などと、女性に比べて親からの行動の制約が少ないこと、その結果でもある行動範囲の広さ、性暴力被害からの恐怖感をもつ必要がないこと、男性が産む性でないことから生じる自由さがある、といったことがあげられる傾向が強い。(中略)
男で損したことをきくと。「強さを要求される」「業績、出世を要求される」「弱音をはけない」「経済力を要求される」「泣くと弱虫と言われる」「体力的にきついことを要求される」「セックスでリードしなければならない」「性関係で責任をとらされる」など、「強さ」や「忍耐」、リーダーや責任者であることを要求されることがあがってくる。(中略)
それにしても、なぜ、男であること、女であることで、「損」や「得」が生まれるのだろうか。
と疑問をなげかける。
「男と女、どっちが損か得か」とはなんと卑しい言説であろうか。
人間は、「男に生まれて良かった、悪かった」ではなく、「自分に生まれて良かった」である。男(女)に生まれて不幸、だから女(男)はずるいという考え方は、不幸の元であり、建設的な幸福は生まれない。なぜなら、幸福か不幸かの判断基準を、自分の心のあり方ではなく、外的要因に求めているからだ。幸福も不幸も自分自身のものであり、他人のものではない。
この「女性学・男性学」では、
「男=外、女=家庭」という近代的な性別分業は、明らかに女性の立場を弱くした。女性たちは、近代産業革命後の社会においても、家事・育児労働という、男と同様あるいはそれ以上の長時間労働を強いられてきた。しかし、この労働は、男の賃金労働とは異なる無償労働(アンペイド・ワーク)なのだ。つまり、男性の労働は、生産労働であり、それゆえ社会的な意味のある「公約」な労働であり、さらに賃金が支払われる労働であるのに対して、女性たちの労働(家事・育児・介護労働)は、モノを生産しない。それゆえ、「私的」な労働であり、さらに、賃金の支払われることのない無償労働(アンペイド・ワーク)だ。簡単に図式化すれば、男=生産労働―「公的労働」=賃金労働、女=再生産労働=「私的」労働=無償労働という構図が生み出されたということだ。もちろん、女の「私的労働」よりも男の「公的労働」の方が、より社会的に価値のある労働と認識しやすいだろう。また、そもそも、男の生産労働は、女の労働と異なり、賃金が支払われる労働なのだ。
として、男性の労働の優位性を示した。
日本女性学会の「フェミニズム一問一答」では、
「男女共同参画社会は労働を至上価値とするマルクス主義に基づく「尊い家事育児を担っている専業主婦も含め、みんな働け!」イデオロギーである。」
という問いに対して、女性学会側
http://www.joseigakkai-jp.org/newsgogai.htm
では
貴族社会では蔑まれた労働に高い評価を与えたのは近代資本主義であり、マルクス主義の労働観もその延長線上にあるということは広く共有されている認識でしょう。男女共同参画社会はむしろ、労働に至上の価値をおく近・現代の産業社会で軽視されしわ寄せを受けてきた家事・育児・介護など生活にかかわる活動の意義を、高く評価し直そうとする社会です。が、それらを特定の人(専業主婦)の役割にするような「慣行」がつづいてよいとは考えないのです。個々の人が、人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です。そういう選択を含めて、女性も男性も、生活にかかわる活動について多様なやり方が認められ、選んでいけるような条件整備をしようというのが男女共同参画社会の理念です。
と回答した。
神名女史は、
この回答は明確な「専業主婦蔑視」である。「人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です」という一方で、「家事・育児・介護」を「特定の人(専業主婦)の役割にするような『慣行』がつづいてよいとは考えない」と述べている。では、専業主婦は「自由意志」によるものではなく「慣行」なのか。専業主婦には主体性がないと言うのだろうか。
また、この回答でいう「労働」とは正確には「賃労働」であって、主婦の「家事・育児・介護」もまた「労働」であるという事を認めていない。回答にいう「近代資本主義」はあくまでも経済領域の話であるから、そこに家事労働が含まれないのは当然としても、このような偏った労働観(労働の意味を「賃労働」に限定する)を家庭の領域にまで持ち込むのは、マルクス主義に特有の考え方である。そもそも「経済の領域」と「家庭という領域」とは別原理に立脚するものであり、このような混同はまったく不当である。(ジェンダー素描91・フェミニズム一問一答)
と再反論した。
女性が男性と同等の経済力を持とうとするなら、家事労働に対価を払うか、家事労働を外部に受注して自分が働きに行くという方法が考えられる。上野千鶴子女史編集の「リスキービジネス」という本で、上野女史は奥谷禮子女史との座談会で、「家事労働の外部化がカギ?」として、
上野・(家事労働などの)家庭責任を第三者に委譲するには、公共化という選択をするほかないというわけですね。
奥谷・公共化と、あとは民間企業のサービス商品ですね。
上野・私たちがずっとやってきた家事労働論からいうと、それは家事労働が不払い労働から支払い労働になるということです。女は、かつて家庭の中でやっていたことを家庭の外で、家族のためではなく他人のためにやるようになって、そのことに支払いが発生する。(後略)
上野・(前略)女が子どもを我が手で育てたのは、せいぜいここ半世紀。歴史的にみれば、育児も老人介護も共同体でやってきたわけです。商品化・公共化でそれがもう一度人手にわたるっていうんだから、もとに戻るだけなんですけどね。
と述べた。
確かに日本ではかつて漁村や農村では、家族全体で子どもを育てたが、それもまた大家族で血縁があり、愛情や親しみがあってできた無賃労働である。スウェーデンのように、託児所や老人ホームを税金で作り、人件費や設備費、光熱費や管理費などを税金でまかなうことと、日本の昔の農村で大家族が子どもの面倒を無賃でみたのとは、全然物事の本質が違う。
このような、「男と女、どっちが損」だとか、家事は無賃労働で女性は損だとかみなす考えに対し、神名龍子女史は、
(前略)現在でもフェミニズムが「男」と「女」をゼロ和ゲーム(ゼロサムゲーム)の形でとらえていることと同型である。そして実際にそのような場面もあり得るとは思うが、しかしそれは男女の本質ではないし、性別というものをその一面だけで捉えても、何もわかったことにはならない。以前から書いているように、性差と性差別は違う。性差別は性差を利用して行なわれるが、性差が性差別の本質であるわけではない(これは差異と差別の全般について同じことがいえる)。また別の一面では、性差はエロスの源泉でもあるという事に、フェミニスト=ジェンダーフリー論者を遥かに上回る人々が賛同してくれると確信している。
次に、家事・家計が私的奉仕でありそれを司る主婦を「家内奴隷」とか「筆頭女中」だというのも、かなり偏った見方だといわざるを得ない。一見すると、これと違った見方をしているように見えるのが、上野千鶴子である。彼女は家事・育児を「労働力の再生産」と捉え、これをたんなる「私的奉仕」ではなく社会的意義のあるものとして捉える。そこから「家事労働に賃金を」と主張が出て来るわけだが、これは結局はエンゲルスの見方と五十歩百歩なのだ。この上野の考え方だと「婚姻」は、家事労働のための「労働力」を対価と引き換えに提供する契約だということになってしまう。ならば、主婦は「家政婦・兼・愛人」とどう違うのか、という話になってしまうからだ。(前略)
専業主婦が家族というエロス的な関係において労力を用いた場合、あるいは大切な友達のために動く場合、私達はそもそも金銭的な見返りなど期待していない。まったく何も期待していないというと、綺麗事が過ぎるような気がするが、このような場合の「見返り」はかけがえのない家族や友人からの承認なのである。「意気に感じる」とか「士は己を知るもののために死す」というのも、経済学的な観点からは理解不可能だろう。しかし、学問的に理解不可能だからといって、それは「存在しない」のでもなければ「迷信」や「妄言」なのでもない。それはむしろ、人間が意味や価値を持ち、他者からの承認によって自我の安定を得るという普遍的な性質に由来する心性なのである。(ジェンダー素描64・ジェンダーフリーと社会主義)
と述べる。フェミニズムの世界では、女性の家事労働を低く見積もり、専業主婦が家事労働をするより、賃労働をすることが社会的に値打ちがある、とみなすことは、愛情よりも金銭に値打ちがあるとすることと同じであり、このような発想は金銭至上主義に傾くものである。
家庭における妻は、夫の経済力に寄りかかるものであり、主人に対する雇い人のように自由が無い状態を「家父長制度」とし、これを打開することがフェミニズムの目標とされている。では、どこかの会社の社員として働く夫には「自由」があるのか。会社の中で自分の意思を上司に通して働く自由を持っているのか。夫に対する妻より、上司の下で働く部下のほうがより自由があるという根拠もない。
また、経済的自立があれば、女性は男性から自由になるとされているが、それは女性が働いて自分自身を購ったに過ぎない。夫から家事をまかされて、それによって扶養される妻も、自分で働くことによって自分を購う女性も、「自分」というものを経済に従属させて考えている点は同じである。
人間はお金がないと生きていけないが、その一点に縛られてしまうのは、男性の奴隷ではなく「経済」の奴隷になることであり、どっちにしてもお金本位の考え方には変わらない。
福田 恆存は
「物質的条件に左右される人間というものを認め、それゆゑに、その物質的条件を変へてかかろうとする試みは、それはそれでいいのでありますが、他方、物質的条件に打ちかとうとする努力、愛情と信頼とをそれに優先しようとする努力、それがなければ、人間の敗北でありませう。そして、その努力は、人間関係の最小の単位である男対女、あるいは家庭を唯一の拠りどころとしなければなりますまい。」と語る。
家庭とは社会を構成している大事な要素である。男女の間、あるいは夫婦の間に愛情が欠如しているから起こる対立を、家父長制度や封建制ゆえのことだと責任転嫁をしてはならない。ましてや、人間を金銭の奴隷だとみなすこともすべきではない。