神名女史を知るための哲学

神名女史は、りゅこ倫において、

哲学とは、自分で考えることであって、プラトンやヘーゲルが何をどう考えたかという知識を習得することではない(りゅこ倫・哲学の味わい方)

と述べました。しかし、ある程度は哲学独特の考え方を知っておいたほうが、より深く理解できる手助けになると思いますので、簡単に解説しました。

2007年12月28日

○確信を成立させるための還元

われわれは、われわれの考察を始めるに当たって、ごく自然な普通の生き方をしている人間の身になってみよう。つまり、表象したり、判断したり、感情作用をしたり、意欲したり、しかもそれらがみな『自然的な態度において』なされているような、そうした人間の身になってみよう。」     (『イデーン1』より)

 

 フッサールは、わたしたち人間がふだん日常的にやっている「ごく自然な」世界像、世界を見る見方を「自然的態度」と呼んでいます。

 自然的世界像の特徴は、

(1)世界とは、「私が今ここに居る」意識を中心として、三次元的な空間として、自分の上下左右前後、時間的には現在を中心にすでに経験した「過去」、未知の「未来」が広がっている。未来は未知だが、それは確かに存在するという確信があること。

(2)この世界は、わたしにとって、単なる事象として存在するのではなく、さまざまな価値やエロス(良いもの)をはらんだ多面的な実践的世界として存在する。

(3)もっとも大切なこととしては、この世界には、自分と同じように「心」を持った他者が存在している。

という3つの「確信」を持っていることです。

 

 現象学では、主観と客観の問題を解くために、あえて、「独我論的」前提から出発し、そのために、この「自然的態度の成立」を「徹底的に変更」し、そこでの素朴な確信をいったん、すべて疑ってみなくてはなりません。 

 フッサールは、「自然的世界像」につきまとっている一切の素朴な確信(自明性)を、怪しいものとして疑うこと、そして「自然的世界像」を基盤にした科学的「学問」をも疑うこと、また科学的「学知」のみならず、いろいろな「物語」(神話、宗教上の世界像、諸作品等々)の知見をも留保すること、と主張しました。

 つまり、「還元」とは、さまざまなドクサ(憶見)が交差して作られた「世界像」から、そのドクサの衣を取り去ってしまうことなのです。

この取り去った衣が、「自然的世界像」であり、「科学的な知識」であり、さまざまな宗教的な物語なのです。また、これらの衣は、「私がここにいる、時間空間の一地点に、周囲の人もまた同じように心を持って」という世界像と呼応するものです。

 フッサールは、個々人の具体的経験を含めたさまざまな類推や憶見を、そのはじめの出所である、経験の一番原型の場面に還元してみると、その結果「純粋意識」と呼ばれるものが、ドクサの衣を剥ぎ取った中に「残余」として取り出せると述べています。

 その「純粋意識」とは、実在するものではなく、単に、人間の経験や世界像一般を可能にする「働き」そのものとして抽出されるものであり、「主観」にとって、世界のさまざまな事象の存在を作り出す「はたらき」のことだから、これは、「私」という存在の確信を作り出すものであって、そのほかの存在物の確証の手がかりにはなりません。

つまり、「純粋意識」とは、「私」の「存在の確信」を作るものであって、そのほかの存在物の確証にならないので、それ自体が存在物であるとはいえないのです。

 現象学の特質は、この確信がどのように生じるのかを明らかにする点にあります。そのために、現象学では、個々人の人間の「現実」を構成する事物を、いったんその要素に「還元」し、かつ、要素間の関係構造を明らかにしようとするものなのです。

 

 神名女史は、「主客一致問題」を現象学的に解明することを

 近代哲学の重要な課題に、主観が客観を正確に捉えることは可能かという「主客一致問題」がある。人間は自分の主観の外に出て主観と客観を比べることはできないから、これが不可能だということはすぐにわかる。また、この問い自体がすでに「客観」の存在を前提としているわけだが、主客一致の確認が不可能なのと同じ理由で、そもそも「客観」の存在そのものが証明不可能なのだ。

 

 しかし、「客観」の存在は証明不可能でも、「『客観』が存在するという確信」は存在する。それはなぜか。例えば、私の目の前にパソコンがある。普通は、「パソコンが存在するから、私にパソコンが見える」と考える。つまり「客観があるから、その客観の像が私の主観に現れる」と考える。これは、これはごく普通の認識方法(自然的態度)だが、これを前提にすると上の「主客一致問題」という証明不可能な難問が発生することになる。なぜなら、パソコンが「客観」的に存在しているかどうかが証明不可能である以上、この証明不可能なことを前提として「主観」(私にパソコンが見える)を説明しても、何一つとして確かな事はいえないからである。

 

 そこで現象学では、逆に「私にパソコンが見えるから、パソコンが存在する(という確信が生じる)」と考える。この場合、パソコンの存在は事実として「客観的に」存在するのではなく、あくまでも「パソコンが客観的に存在するという確信」として捉えられる。「私にパソコンが見える」ということは、証明の不要な「原的な体験」である。もちろん、それが直ちに「このようなパソコンが『客観』として存在する」ことの証明になるわけではない。そうではなくて、この「原的な体験」は「パソコンが存在するという確信」が成立する理由なのである。こう考えることで初めて、「主客一致問題」が解消されるのだし、これ以外には方法がない。(りゅこ倫・欲望とそれに先立つもの)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin80.html

と述べています。

 

 なぜ、「還元」をするかといえば、「正しい認識の条件」をさがすためではなく、「確信の条件」を確かめるためです。そして、確信の条件を確かめるために、まずは「客観的存在」を前提しないことが必要です。

神名女史は、生活世界をさらに還元する理由について、

 

なぜ生活世界を、さらに還元しなくてはならないのか。それは生活世界が時代や文化の違いを越えた共通構造を持つことを明らかにするためである。(りゅこ倫・学問の意味)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin105.html

と言っています。

 

 それの要点をまとめると、普通はここにリンゴがあるから、赤くて丸いリンゴの像を見ることができる、と考えます。

それをひっくり返して、「赤くて丸いこういう像を見ているから、リンゴが確かに存在しているという確信を抱くのだ」と考えてみます。リンゴが存在することが出発点なのではなく、「ここにリンゴがある」という確信が成立する側を出発点と考える。つまり、リンゴがある(原因)からリンゴの像が見える(結果)ではなく、結果(リンゴの像が見える)から、原因(そこにリンゴがあるという確信が成立する)というように置き換えてみるのです。

 これが「還元」といわれる方法の基本的な方法で、「本質直観」とは、この考えを応用したものです。赤くてまるい形の像が自分の意識に生じている場合、誰もが目の前にリンゴが存在することを確信せざるを得ません。自分だけの確信にとどまらず、他人にとっても同じく言える確信の構造を取り出して記述することが「現象学的還元」の基本的な方法になります。

 

 ここで、たとえば、「リンゴ」を違うものに置き換えてみます。「男と女はどこが違うか、違わないか」あるいは「幸福とは何か」これらは、わたしたちの内部でどのような経験の芯があって個々人が答えをそれぞれ出すのか。「男と女はここが違う(違わない)ものだ」ということをあらかじめ前提に置かないで、客観的な事実や答えがあると考えないで、一人一人に問いかけてみると、答えはそれぞればらばらです。

 しかし、その個々人の答えに何か深い共通項があるとしたら、それは何か、というのが「本質直観」という方法の問い方なのです。

 自分にとっての「真理」のありようを確かめ、そこにとどまらず他の人がさまざまな形で「真理」と読んでいるものの内実を確かめ、そしてその上で、その共通項を取り出して、誰もが「これが真理の芯になっているな」と納得する「概念の芯」を取り出すことが、「本質直観」なのです。

 現象学は、わたしたちが普通に日常生活を送る上で、誰もが持っている「自然な見方」や「固定観念」を完全に打破しなければ、思考の迷路に入りやすいものです。また、フッサール自身が

「現象学的態度と判断中止は、人格の変化を起こす力さえあり、宗教的回心とも比べられる」と述べるように、自己への問いかけや疑問を徹底させる必要もあります。

 しかし、現象学的還元をすることによって、わたしたちは宗教・哲学・学問上の対立がなぜ起こるのか、根本から明らかにすることができます。対立とは、すべて、「自分自身の本質的な構造・超越論敵構造」への理解不足から起こるものなのです。

 現象学は、それらの考えを否定するのではなく、また、現象学の理念そのものは、個々の複雑な対立問題を解決する万能薬になりません。しかし、個々の対立問題を解決するための道筋を示すことはできます。

 現象学とは、中立的な立場に立って洞察するだけのものであり、無思想的なものなのです。   


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