神名女史を知るための哲学

神名女史は、りゅこ倫において、

哲学とは、自分で考えることであって、プラトンやヘーゲルが何をどう考えたかという知識を習得することではない(りゅこ倫・哲学の味わい方)

と述べました。しかし、ある程度は哲学独特の考え方を知っておいたほうが、より深く理解できる手助けになると思いますので、簡単に解説しました。

2007年12月28日

○共通了解の可能性を求める

神名龍子女史は、戸籍上は男性ですが、女性解放論者が世に跋扈して「女らしさ」などの文化が失われることを懸念して、自ら女装することによって、「女らしさ」という文化を、身をもって体現し、さらには女性のエロス(この場合のエロスとは、美や善などの良いもの、値打ちのあるもの)を身につけようと努力した人です。

 神名女史は、女性のエロスを身につけた自分が社会とどう関わっていくのかを思索し、哲学を特に現象学を学びました。

 たまに、哲学を勉強することは歴史上の哲学者が書いた本を覚えることだ、と思っている人も見かけますが、それは哲学史であり、哲学ではありません。

 神名女史は

哲学とは、自分で考えることであって、プラトンやヘーゲルが何をどう考えたかという知識を習得することではない(りゅこ倫・哲学の味わい方)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin46.html

と述べるが、ヘーゲルが何を考えたか知らなくては、神名女史の考察が判らないと思うので、ここでは簡単に触れておきます。

 人間は昔から、自分たちが現存しているこの世界はどのように成り立つのかを考えてきました。この「突き詰めて考える」力を、「理性」と呼びます。

 神名女史は、

 

(前略)「理性とは何であるか」を考えるのも理性である。そして理性で「理性」について考えると、「理性には限界がある」ということがわかる。このことを最初に指摘したのは、おそらくカントである。理性とは推論の能力であって、ものごと(現に与えられているもの)の存在理由、原因結果の連鎖(=条件)を徹底的に問い続け、最後にその完全性・全体性に行き着かないと、「なぜ」と問うことをやめないような性質を持っている。これが理性の本性だ。

 たとえば、「世界に始まりはあるか」と考えてみる。「ある」というなら、「ではそれ以前はどうなっていたのか」という、さらなる「問い」を呼びよせてしまう。「ない」というのなら、世界は無限ということになるから、人間の理性が知り尽くすことはできないということになる。つまり、理性は完全性・全体性を追い求めるけれども、そのすべてを知り尽くすことは背理だということがわかる。

 言いかえれば、人間の理性は与えられた条件によって、ある範囲までは「それなりに」信用できるが、それには限界がある、ということなのだ。(りゅこ倫・伝統と理性)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin104.html

と述べて、人間が限界はあるものの、世界の成り立ちなどを必死に追い求めてきたことを示唆します。

 

まず、世界で最初の哲学者と言われるタレスが登場します。タレスは、「万物の原理は水だ」と唱えました。彼が登場するまでは、世界の成り立ちについて、人々は神話で説明しようとしたので、統一した見解がありませんでした。しかしタレスは、世界はこのように作られる、という普遍的な説明をしようと試みたのです。

それ以来、ギリシャ哲学では「世界の原理とは何か」ということに中心がおかれるようになりました。世界はどうなっていてどのように形成されるか、という問題を考えるうちに、人々は、「起源」と「全体」という概念を見つけたのです。当時の哲学とは、世界をくまなく説明し尽くそうとするため、世界の「起源」から始まって「全体」が何かを語ることで、世界のすべてを説明できると考えられました。

その後、スピノザ(1632〜77)は、「全体」が何であるかを考えたが、彼によるとそれは、「絶対無限の存在者」にして、唯一無二の実体である「神」と考えました。その「神」とは、多くの属性を持ち、その属性も神であり、万物は、この属性もしくは神そのものの現れであると考えたのです。

スピノザは世界を精神と肉体の二つに分けるのではなく、一つの「実体」とみなし、物体として見えるものを「実体の延長」、精神として見えるものを「実体の思惟」と呼びました。世界に存在するすべてのものは実体の延長であり思惟であり、これを総称して「神」と呼んだのです。

そして、神は、自由な意志によって万物の様態(様々な個物)を生み出すのではなく、それ自体の本来の法則に従って必然的に生じさせると考えました。自然(世界)を神の一部、もしくは神そのものと考えることを「汎神論(はんしんろん)」と呼びます。

 

デカルトは、スピノザとは逆に、自分の「意識」が最初にあって世界へとつながる、と考えました。

「『我思うゆえに我あり』。私という人間は確実に存在する。

この私がさまざまな観念を持つ→その観念の中に『永遠なもの、完全なもの』の概念がある→不完全な存在である私の中から『完全なる神』の概念が生じるのは不合理だ。とすると、この神の概念は私以外の何物かから生じたとしか思えない→不完全な私が持つ『完全なる』神の概念の原因は、神そのものである」

と考えました。デカルトは神の存在によって、主観と客観を一致させようとしたのです。しかしデカルトは、目に見えなくて、いるかいないかはっきりしない「神」という概念を持ち出さなければ、主観と客観を一致させられませんでした。

それに対して、カントは、

「『世界とは何か』という世界の本質を問うことに、人間は答えられない。なぜなら、人間は、事物の『本質』の認識から隔離されたところに置かれているからだ。しかし、人間は、『経験の世界(現象の世界)』については正しく認識できる。認識できないのは、『可想界』つまり事物の本質の世界だけだが、人間はこの『本質』を思い描くことができるし、『本質』を追求する性質がある。これが、人間の『自由』である」

として、カントは、神の存在によって主観と客観を一致させるのではなく、「良いもの」「美しいもの」に対する人間の意志を明確にさせることで、人間の可能性を示しました。

 神名女史は、カントについて、

 カントの考えでは、人間は「あるがまま」(=本質)を知ることが出来ない。それは当然である。なぜなら人間は自分の主観(=認識)から抜け出して「客観」それ自体を見ることは出来ないからだ。しかしカントの考えでは、この「主観・客観の一致の不可能性」は、あくまでも事物が「いかにあるか」を問う場合に限られる。では、そうではない問題とは何か。それは「いかにあるべきか」を問う場合である。前者を「存在(ザイン)」、後者を「当為(ゾルレン)」という。

 カントではこの当為の問題は、具体的には道徳の問題である。つまり、人間が「いかにあるべきか」という問題だ。人間は、事物の「本質」を認識することは出来ないが、思い描くことは出来る。したがって「何が善であるか」も、人間は理性によってしっかり考えれば判る。そうしたらそれに即して「善き行為」を行うように自分を律すればよい。カントの道徳論は、およそこのように展開される。

 実は、ここまで述べてきたカントの考えには、いくつかの間違いがある。人間が「ありのまま=本質=真理」を認識できないというのはその通りだし、これはむしろカントの業績に数え上げてよい。しかし彼の考えでは、神のみぞ知ることのできる「本質の世界」と、人間の認識の限界の内部で現れる「現象界」とが対置されたままになっている。要するに彼の考えでは、人間に知ることは出来ないが「本質の世界」は存在するんだ、という話にもなってしまうのである。(りゅこ倫・「本質」とは何か)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin87.html

と述べて、カントが、「客観」の存在を前提にして考察をしたから誤りを犯したと説明しました。

 客観とはどのように存在するか、だけではなく、そもそも「客観」が存在するかどうかも、人間には理解できないものです。なぜなら、わたしたちは、自分の主観を離れて、物事を見ることは、できないからです。

 

主観と客観がいかに一致するか、について、ヘーゲルは次のように考えました。ヘーゲルは、人間の認識の特質は、人間が成長すれば能力がレベルアップすることだ、と主張したのです。子どもが見るりんごも大人が見るりんごも、同じものですが、子供にとっては「甘い果物」という認識のみであっても、大人はそのりんごがいくらで売られ、どういう種類で加工すればジャムや焼きりんごになるなど、子どもよりも多くのことを知っています。

人間の認識能力は、それ自体が生き物のように成長し、認識の能力は徐々に高まっていき、やがてその極限は、「神」のごとき完全なものになる。主観と客観は一致しないのではなく、最終的に大いなる「一致」に向かう過程である、とヘーゲルは考えたのです。

しかし、やがて、ヘーゲルのこの考え方は批判を受けることになりました。認識が進歩して「完全知」に至るなら、歴史や世界の成り立ちや「意味」がすべて認識され尽くし、一切が定められる「運命決定論」になってしまうからです。

主観と客観が「一致」しないなら、人間は「善悪」や「真偽」について確実な意見を持てなくなってしまうし、「一致する」なら、一切が定められる運命決定論になってしまいます。この問題は多くの哲学者を煩悶させました。

 

デカルト、カントを経てヘーゲルに至るまでの近代哲学は、「主観と客観」をどのように一致させるかという論理的な努力の歴史だといえます。

人間の「意識」を起源とすれば、わたしたちが周囲の事象を正しく認識しているのかどうか、が問題となります。わたしが今、りんごを見ているとして、そのりんごは、りんごそれ自体と一致しているのかは、どのように証明すべきか、主観と客観が一致する保証がどこにあるのか、が問題となりました。

 

その後、フッサールという人が出て、

「生活世界(生きて五感で感じる世界)がおおもとであり、そこに生じるさまざまな事柄を説明するために創りだされたのが科学であり物理社会だ」と述べました。

 このあたりのことを、神名女史は

 

(前略)フッサールは、生活世界こそが、実証主義的な学問によって示される客観的世界を支える根拠(地盤)であると主張する。なぜなら実証主義的「科学」それ自体も、人々が生活世界の中での意図による実践のひとつであり、生活世界から独立したものではないからだ。また、実証的な学問の理論を検証し、基礎付けるためにも、生活世界の中での知覚が常に必要とされる。つまり、生活世界における知覚の確実性と間主観的な妥当、世界の存在の恒常的妥当などが、学問の客観性を支えていることになる。(りゅこ倫・学問の意味)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin105.html

と述べています。

 

フッサールは、「現象学の理念」という本で、

「認識はそれがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身の一致を確かめうるのであろうか」

と書いています。

 つまり、わたしたちは、「正しい認識能力」を持っているか否か、が問題となります。人間の認識能力が完全であれば、主観の認識と客観は一致するはずなのです。

 しかし、一般的にはりんごや服やコップなど、具体的な事象について、実在するかどうかは、普通は問題になりません。覚せい剤中毒などの特殊な事情がない限りは、目の前にコップがあれば、それは実在するものであり、それを疑ってしまったら日常生活が成り立たなくなるからですね。

 

しかし、りんごや服ではなく、ある人の行為は良いことだったのか悪いことだったのか、という問題になると、主観と客観との「一致」は重要な問題となってきます。

主観と客観の一致は、「認識」だけにとどまらず、何が「本当(善)」で何が「間違ったこと(悪)」かを追求する問題にまでつながっているのです。

人間の生活は、「善か悪か」「嘘か本当か」の根拠がなかったら、混乱してしまいます。「善悪」の根拠が消えてしまったら、単に強いものが勝つ動物的な社会になってしまいます。主観と客観が「一致」があるのか無いのか、という問題は人間にとって「善悪」「真偽」という価値が無意味なのか、それとも根拠があるのかどうか、という問題につながる大問題なのです。

 

フッサールは、「客観など無い」とまずは前提条件を示しました。

彼は、まずは、「客観とは何か」という問いを立てたのです。

目の前にあるりんごが実在するかどうか、人は疑うことはありえないが、絵画の美醜や優劣について絶対的な客観評価があると人はおもいません。

ここでは、自分の五感をとおして確認できるものは「実在物」とよぶが、理性によって判断される関係や意味、理念などは「ことがら」と呼びます。

まず、「実在物」と「ことがら」を区別します。

「実在物」とは、生き物の「身体」にとって意味や価値を持つもので、その客観性は共通の五官など(同一性)で認識することが条件で成立します。

「ことがら」とは、身体にとってではなく、主体の価値観や関係の判断(幻想的身体)にとって意味と価値を持つ存在として表われ、その客観性は共通の感受性、美意識、価値観で認識するとき、同一性、普遍性を保てます。

だから「完全な認識」や「完全な客観」は実体として存在するものではないので、それ自体を捉えることはできません。つまり、わたしたちは、その認識や経験から生じる直観によっても反省によっても同一物としての自然事物の存在を否定できないが、それは「認識不可能な存在」でもあります。

しかし、それは、カントが言ったように、「人間は完全なる認識ができない」のではないのです。完全なる認識があることを、人間は、「疑うことはできなくて」、なおかつ、それは「認識や経験の対象ではない」のです。

 

人間は、「無限大」という概念があることを知っていても、「無限大」まで数えてそれを経験することはできません。

「完全なる認識」とは、数学でいう「無限大」のようなものです。完全なる認識が可能か、ということは、無限大を体験したり、無限大まで数えられるか、という問いに等しいものなのです。

そもそも、認識それ自体が、「すべてを認識」するものではなく、必要に応じてポイントだけの現実を切り取ることです。わたしたちは、視野に入るものも入らないものも、すべてを見ることはできません。必ず、何か一つのものに焦点を合わせて見ているものです。  

あなたの鏡台に、鏡があると思いますが、社会のすべてを写す鏡はありません。あなたは、いつもあなた自身やあなたに関心のあるものだけを鏡に映しているものです。鏡に映る世界は、あなたの全世界の「一部」です。

そして、わたしたちは、無限大を経験することはできないし、「完全なる認識」を経験することもできないのです。

現実に生きるわたしたちは、それぞれが置かれた条件の中で、「現実を切り取って」部分的な認識の中で生きています。そして、一人一人が違う価値観を持ち、部分的な認識のもとに生きているのです。

 

人間はりんごや柿などの「実在物」についての見解が食い違うことは、ほとんどありません。それは、少なくとも人間の間では身体的な同一性が存在するからです。

しかし、ある宗教や芸術、服装などの評価といった「ことがら」については、善悪・真偽の判断は、人によってまちまちですし、この不一致によって、宗教戦争などの社会問題を引き起こす可能性もあります。

わたしたち個々人の世界観は不完全で部分的なものだが、お互いの認識を一致させることが目的なのではなく、何か問題が起きたときに、お互いの認識を一致させる可能性があるのか、ないのか、ということが生きていく上で問題になるのです。それこそが、「認識問題の本質」なのです。

何か問題があったときに、お互いの認識を一致させることを共通了解といいます。

神名女史は

 

(1)「客観」はない。あくまでも「主観」(意識)に「妥当」してくるものがあるだけだ。

(2)「妥当」(確信)の条件は、自分の意識に確かめる事が出来る。

(3)客観的な「真理」はない。人々の間での意見の「一致」があるだけだ。

(4)一致する意見(共通了解)を取り出す事が出来るかどうかには条件がある。

ということなのだ。最後の「共通了解を取り出すための条件」とは、今のところの私の理解では、「お互いに『共通了解』得ようとする意志があること」である。当たり前のようだが、これは言い換えれば、お互いが「よい関係」を望んでいるという意味である。相手を力ずくで屈服させようとか、相手との付き合いをなくしてしまおうと考える場合には、「共通了解」を取り出そうとする動機がないといえる、もしくはそれ以上に別の何か(相手の意見に従ったら「負け」だと思うようなプライド)を大切に思っているような場合であろう。(りゅこ倫・どう解くの系譜)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin50.html#6

 

と述べています。

 わたしたちは、生きていく上で、お互いの価値観がぶつかり合ってもめることが多々あります。現象学では、主観と客観の一致の問題を、価値観が対立したときの「共通了解の可能性の原理の問題」に置き換えているのです。


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