

社会の最小単位である「自分」と「彼(彼女)」について考察しました。
2008年1月8日
皆さんは、「自殺したい」と思ったことがあるでしょうか。思ったとしたら、なぜ死にたいと思ったのでしょうか。
「なぜ死にたいのか」という質問の裏には、「なぜ生きなければならないのか」という問いが隠されています。自殺する人は生きる意味を見つけられず、絶望したからだ、とも言われます。
平和な世の中にあって、生きる意味を見つけられないでいる人に「平和ボケしている」と言う人もいます。
ハイデガーは、「存在と時間」という本の中で、
「世人は、目先のものに気を奪われ、平均的な考えに従って無責任に行動し、自分自身の存在を真剣に考えない。しかし人は、あるとき、自分自身の存在を意識し、なぜ自分が存在するのかを問い、非本来的な生き方(Uneigentlichkeit)から、本来的な生き方(Eigentlichkeit)をするようになる(本来性を見つける)。では、いつ人は、自分自身のあり方を真剣に考えるようになるのだろうか。それは、他ならぬ自分自身の死に直面したときである。他人の死ではなく、自分自身の死に直面することによって、人は自分自身の人生の有限性に気づき、そこで初めて自分が生きていること、自分自身が存在していることの重みを自覚し、自分自身のあり方を真剣に考えるようになる」
と述べました。だけど、いつも「自分はいつか死ぬんだ」と考え続けることはできませんね。
神名女史は
ところで、先月に何人かでこの「本来性」の話をしていた時に、「どうせ最後には死ぬんだと思うと、やる気がなくなる」というような意見が出たことがあった。これも、私にも同じようなことを思った覚えがあって、よく判る。とすると、死を自覚しつつ、やる気を無くさないような考え方があるのだろうか、という事が気になる。
(りゅこ倫・生と死)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin45.html
と述べています。
わたしは、死期が近づいても、体力が許す限り、着物をばしっと着て美しく化粧をして、死にたいですね。死ぬからといって、汚れたパジャマでぼさぼさの髪で死にたくないですね。自分なりのダンディズムがあります。
神名女史は
そして、死が「いつ訪れるか判らないもの」だという事は、世間的な価値にとらわれて動くのではなくて、常に「今」生きている自分の価値観を了解しつつ動けと言う事だと思う。世間的な価値にとらわれて生きていて、それでいつ死んでも、本当にそれでいいのか。そういう事ではないだろうか。だから、問題は死ぬことではなくて、あくまでも生きること、生き方にある。「生き方」といっても正義のために生きるとかそう言う事ではなくて、「自分を誤魔化して生きてるんじゃないよ」ということ。(中略)
だから、いよいよ死ぬという時に、「死にたくない」と思ったら、その感じたままに「死にたくない」といいながら死んだっていいのだ。名前を忘れたけど、実際にそういう禅僧がいたような記憶がある。何かの本でその話について、「禅僧は執着を持たないから、生にも死にも執着を持たない。だからその時に『生きたいですか』と誰かが尋ねたら、『生きたくない』と答えただろう」という意味の解説が書いてあった。
(りゅこ倫・生と死)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin45.html
と述べています。
三橋鷹女という人の俳句に、「白露や死んでゆく日も帯しめて」というのがあります。死ぬその日も、きちんと着物を着て帯をかっきりしめて、そして死ぬべし、という女の覚悟が伝わってきます。
三橋鷹女にとっては、生きている日も、帯をしめてきちんとした服装で、自分にも人にも向き合っており、死ぬその日も同じような態度で生き、そして死んでゆく、という決意があります。このような生き方だからこそ、こういう死に方を想定できるのですね。
ナチスの強制収容所で悲惨な経験をした哲学者のフランクルは、生きる意味について、人生に何らかの価値を見出すこと、としてそれを3つに分けています。
創造価値(絵を書く、手紙を書くなど)
体験価値(人の愛情を感じた時)
態度価値(強制収容所内で、自分の食事を空腹な人に分けるなど)
強制収容所に収監された人々は、明日の命をも知らぬわけで、絶望して自棄になる人もいましたが、少数ながら、これらのことで生きる意味を見出す人もいたということです。
となると、「生きる意味を見つける」とは、「人間の尊厳を保つ」ことだと思われます。生きる意味とは、人生に美を見つけることです。どんな状況であっても、人生には何らかの美しさがあるのですから、それを見つけて、自分自身がそれを具現する力を持とうとすることが、「人間の尊厳」なのです。悲惨な強制収容所においても、何とか人生の美を見つけ、具現しようとした人が少数ながらいました。
ナチスの収容所の人たちは、どうせ虐殺されてしまったのだから、尊厳を保とうとした努力は無駄だったのでしょうか。そんなことはありません。こうやって語り継がれ、その人たちの美しい魂を、今もわたしたちは想像することができます。
わたしにとっての「生きる意味」とは、人生に何らかの美しさを見つけて具現することで、人間の尊厳を保つことです。
ですが、「生きる意味」を見つけ出せられない人は、無理に見つけようとしなくてもいい、生きる意味などむしろ考えて、答えが出なくて苦しい思いをしてはなりません。
人間は必要だから生きているんです。自分にとっても、社会にとっても、「自分」は必要だから生きているんです。わたし自身がわたしを必要としています。だから、死にたいなんて思ってはいけないんです。
だから、「生きる意味」ではなく、「自分にとって必要なこと」をなさってください。
それに、わたしたちは、自発的に生まれたくて生まれたわけではありません。皆さんのお母さんが、希望を持ってわたしたちを生んでいるのです。
神名女史は
「意味」とは平たくいえば「○○のため」ということ。私たちは人生の中で様々な「意味」に出会う。モノや行為の目的を「意味」という形で捉えている。だけど「○○のため」という目的を持って、自己選択的・自己決定的に生まれてきた人なんか、誰もいない。
「生きる意味」などない。だけどそれはニヒリスティックな話としていうのではなく、そもそも人生は「意味」を問う対象ではない、ということ。
人生は「意味」を問う対象ではないのに、人はつい、「人生の中で出会うモノや行為」と「人生」それ自体とを混同してしまう。
そして「人生」それ自体にも何か「意味」があるのではないかと錯覚してしまう。それが間違いなのだ。「生きる意味」に悩むということは、答の出ない問いを立ててしまうという錯誤の結果に他ならない。
しかし「生きる意味」を問うことは、人間に普遍的な現象でもある。それはなぜだろうか?
ちょっと考え方を変えてみよう。人はどういう時に「生きる意味」について悩むだろうか? また、どういう時に「これこそが私の生きる意味だったのだ!」と実感したりするのだろうか?
つまり、「『生きる意味』とは何か? 」を問うのではなく、 「人はなぜ『生きる意味』を問うのか?」という形に、問いを立て直してみるといい 。
(ネットの投稿より)
と述べます。
人はなぜ生きる意味を問うのか。
意味のないことに耐えられないからでしょうね。
でも、社会は「意味」に満ち溢れています。最初から「○○のために」と思って生まれてきた人は誰もいませんが、世の中には美しいこと、素晴らしいものがたくさんあります。
わたしにとってわたし自身が必要なのは、「自分」があれば、人生に美しさを見つけることができるからです。そして、わたし以外の人も、みな自他共に必要とされているんです。死んではいけないです。
ナチスの収容所で、尊厳を保とうと努力しながらも、結局は殺された人たちも、必要とされていたのです。死んだ後もなおも、必要とされています。
死ねばすべてが終わり、というわけでは、必ずしも無いのです。
わたしも、どんな状況であっても、人生に美しさを見つけたいと思います。