自分と彼(彼女)

社会の最小単位である「自分」と「彼(彼女)」について考察しました。

2008年1月8日

○恋愛は幻滅してからが始まりである

 

メンケンという人は、

「愛とは、この女が他の女とは違うという幻想である」と言いました。恋愛とは、ある特定の人が、他の誰とも代替のきかない唯一の人と思わせるもので、「この男(女)を失ったら、自分は生涯、人を愛することができないだろう」という情熱とともに現われます。わたしたちは、恋愛を経験することで、「生きる意味」を見出すのです。

恋愛は、性欲に基づいたものですが、性欲イコール恋愛ではありません。恋愛とは、人間特有の精神的なものであり、観念的なものです。

 しかし、恋愛とは星の数ほど異性がいるなかで、

「この男(女)を失ったらもう生きる意味がない」と思うこと自体が錯覚であり、観念的なものであるゆえに、いつかは冷めるものなのです。恋愛には、幻滅がつきものです。

 

神名女史は、

 

恋愛において「美」(きれい)が重要な要素であることは間違いない。これは相手の容姿の問題だけをいうのではない。

「美」とは身体化(内面化)された「ほんとう」や「よい」であり、それゆえに、「ほんとう」や「よい」に比べると理論化しにくく、より直観的なものである。しかも私達の「美」に対する感性の中には、現実世界での「ほんとう」や「よい」だけではなく、「こうなったらいいな」とか「こんな世界があったらな」というような、憧れが多分に含まれている。つまり「美」とは、現実世界では必然的に挫折する空想の世界への通路なのだ。

 ところがある日、その「美」(きれい)を持つ生身の人間(通常は異性)が目の前に現れる。その彼(彼女)という存在に強く惹かれることこそ恋であろう。恋の成就とは、単にその生身の人間を自分のものにすることを意味するのではなく、かつて挫折して空想の世界(ロマン的世界)へと追いやられた「ほんとう」や「よい」を、再び自分の手に取り戻すことに他ならない。だから、上に恋の成就が自己肯定につながると書いたが、この場合の自己肯定とは、ほぼ全能感に等しい。

 ところが、この時に相手の中に見た「美」によって直観された「ほんとう」や「よい」は、そもそも現実世界で挫折して空想の世界(ロマン的世界)へ追いやられたものであるから、恋が成就したところで、それが現実のものになるわけではない。単に、現実のものになりそうな気がしただけなのだ。

 上に、恋愛が自分の幻想を相手に投影することに他ならないと書いた、この「幻想」というのは、そういう意味である。だから恋は必然的にいつかは冷める。それでもなおかつ相手とのよい関係を維持できるのは、愛の力による。ゆえに両者をあわせて「恋愛」という。

 

 恋はいつか必然的に冷める。もしも、恋が冷める場面に直面しないで済むとしたらそれは、幸か不幸か、失恋した場合に限られる。失われたものは、失われることによって、かえってその存在が強く印象づけられる。

この場合、恋そのものに対しては、つまりロマン的な「ほんとう」や「よい」を自分の手に取り戻すことには挫折するわけだが、しかし、それを相手が持っていると思い続けることが出来る。

ロマン的な「ほんとう」や「よい」は、むしろ失恋によってこそ、逆説的に永遠性を帯びることが出来るのである。(りゅこ倫・人はなぜ失恋の歌を好むのか)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin58.html

 

と観念としての恋愛が冷める過程を述べました。

 恋愛とは、現実世界では実現しえない、幻想としてエロスを、恋人に投影しているだけのものですから、「幻想」であるがゆえに必ず冷めるものです。

神名女史は、恋が失われたときに、その恋愛は永遠のロマン性を帯びるのだ、と説明します。しかし、失恋の「ロマン性」は、恋愛の後ろ姿に過ぎません。

 

恋愛は幻滅を伴うのが宿命です。

 恋愛の相手は、自分の欲望を満たしてくれますが、いつもいつも、相手が自分に都合よく振る舞うわけではありません。

 自分を満足させてくれるはずの恋人が、逆に、自分に反発し、自分の欲望に逆らう存在になってしまうことはよくあります。

 恋の相手は、自分の恋愛の対象でありながら、恋愛を破壊する役割を果すことが、しばしばあるのです。

 しかし、それはお互い様で、自分もまた、恋愛を壊す役割を果しているものです。

また、愛情が深ければ深いほど、思い通りにならない相手に憎悪を感じる度合いも深いものです。愛情と憎悪は裏表の関係にあり、わたしたちは、この憎悪の存在を認めなければなりません。

恋愛とは、男女がべたべたすることではないのです。

一般的には、恋愛から冷めるのは男性のほうが早いといわれます。神名女史は、

 

男性のエロスとは、女装とは関係なく「今だけの、ここだけの」エロスに集約されます。

しかし、女性のエロスとは、妊娠や出産がある女性の人生に直結した「連続したエロス」なのです。女性のセックス(性)はライフ(人生)なのです。

 

と述べています。

「今だけの、その場だけの」エロスのほうが冷めやすいのは生理的にも道理にかなっています。 

ですから、一般的には恋愛において、「だまされた」と被害者意識を持つのは、女性のほうが多いものです。

恋愛が激しく燃え上がる最初の時期は、「あなたこそが唯一の理想の女性」と思っていても、それは、今まで自分が現実で満たされなかった理想を相手に投影しているだけのことですから、デートが度重なればしだいに飽きてきます。肉体関係をもったあと、「女ってこんなものか」と思うことも、よくある話です。

相手の肉体を知ってはじめて、相手の精神や個性、趣味や性質が自分固有の性癖と衝突して、相手の存在が煩わしく感じられるものです。

 

しかし、恋愛の幻滅は、必ずしも、恋愛の終わりを意味するわけではありません。恋愛とは、「一緒にいたい」という気持ちと、「相手から離れた場所で自分を再形成したい」という分離の感情を元々含んだものなのです。

真の愛情とは、べたべたとくっつくだけのものではなく、自分だけの時間に還って冷静さや自己抑制を持とうとする気持ちも同時にあるものなのです。「分離」の気持ちとは、恋愛の敵ではなく、真の愛情を成立させることに欠けてはならないものでもあります。

 そうめんをゆでる時に、差し水をして温度を下げて再沸騰させると、麺の表面がひきしまり、こしのあるゆであがりになるといわれてはいます。「分離の感情」とは、この「差し水」のような役割を果します。沸騰して熱くなるだけが恋愛ではないのです。

 

女性は、恋愛の幻滅や、思い通りにならない相手への憎悪を肯定する術を、男性から学ばなければならないし、男性は、恋愛には「分離」の感情があることを女性に教えるべきなのです。

分離の情を自覚することによって、初めて、男女の愛情は完全なものになるからです。

相手に幻滅を感じたときが、恋愛の本当の始まりであり、自分自身を見つける機会でもあります。

 

 神名女史は

だから恋は必然的にいつかは冷める。それでもなおかつ相手とのよい関係を維持できるのは、愛の力による。

と書いています。

 愛の力とは、恋愛には、甘い一体感と、自己抑制の時間である「分離」が両方あることだ、と認めることです。甘い菓子には、甘さが極まって苦さがあることを認めなければなりません。

 恋愛においては、「分離」の自己抑制は、「今だけの、ここだけの」エロスを持つ男性が女性に教えるものであり、「結合」の甘美さは、性と人生が結びついていて永続的なエロスを持つ女性が男性に教えるものなのです。

 男性は、恋愛がいつかは冷めるものだという残酷な事実を、女性に「優しく」教えなければなりません。わたしたちは残酷な事実から目を逸らしてはなりません。その上で、女性は「一体感」の甘美さを、身をもって男性に教えなくてはならないのです。そうなってこそ、わたしたちは、男性と女性の性差の素晴らしさを知ることができるのです。

 

 しかし、わたしたちは、分離の情があって初めて成立する真実の愛情を経験しているでしょうか。

 口先で「愛している、好きだ」と言うだけが男性の優しさではなく、残酷な現実を教えてなおかつ、そこから愛情を紡ぎだそうとすることが本当の優しさなのではないでしょうか。

 恋愛はいつか冷めるし、幻滅をもたらすという意味では永遠ではありません。でも、もっと実質的な永遠は恋愛にはあるはずで、それは、わたしたちが望んでいるからです。わたしたちが欲することは、どこかに必ず存在するものなのです。

 分離こそ、結合を強めるものだ、と教える男性がいるなら、女性はもっと結合の甘美さを男性に伝えることができるのだと思います。


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