

社会の最小単位である「自分」と「彼(彼女)」について考察しました。
2008年1月8日
わたしの高校時代は、「学校で強制される制服や(男子生徒への)丸刈りの髪型が、子供たちの個性を奪う」という言説が多く聞かれたものでした。強制的に髪を切るのは、良いこととも思えませんが、髪を染めないことや制服着用は、子供たちの個性を奪うものなのでしょうか。
わたしの高校時代は全員制服着用が義務でしたが、同じ服を着ていても、人の雰囲気は同じになりません。同じ服装をしていても、なおかつにじみ出る、その人独特の雰囲気は、消すことができないものです。個性とは、その人独特の「特徴」であり、他の人が持っていないものだと思われます。
神名女史は、
「あの人は個性的な顔立ちをしている。」
という場合、それがよい意味で言われているかどうかは別にして、これは基本的には先天的な違いを指していると考えてもよいだろう。「基本的には」というのは、顔面の物理的な造形ばかりではなく、表情などが他者に与える印象に影響するからである。一方、「個性的な考えの持ち主」という場合には、これは後天的に現れる違いである。なぜなら、人間のものの考え方は、その人物がそれまでに学んできたことや、その他の経験によって形成されるからだ。
両者に共通して言えることは、「個性」とは他者から見て、何らかの形でその人の「人となり」を想像させる材料になるものだということである。 (りゅこ倫・個性とは何か)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin81.html
として、「個性」を、その人独特の「人となり」を想像させるものだと説明しています。
では、ここ数年来聞かれる、「(身体)障害は個性だ」という言い回しについては、どうでしょうか。
この言説は、障害者解放運動の中から登場した言葉で、1970年代に脳性まひの団体でよく用いられた言葉です。自分の身体を、「個性」とみなして生きていた障害者の人々がいたようです。
神名女史は
「障害は個性だ」という主張に対して、私はこの主張を知った当初から強い違和感を抱き続けてきた。その理由は、私の考えでは、単に障害を負っているという事実だけでは、障害者の「人となり」を判断するのに不充分な材料にしかならない、という点にある。
例えば(何でもよいのだが)、『五体不満足』(講談社)の著者の乙武洋匡氏のような、先天性四肢切断(生まれつき手足がない)を考えてみよう。ある誰か未知の人について、彼(彼女)が先天性四肢切断という障害を負っているという事実が判っても、「それは不便だろうな」ということくらいしか、私には想像がつかない。先天性四肢切断なら誰もが乙武氏のように強く、明るく生きられるというわけではないだろう。仮に乙武氏の他にもそういう人がいるとしても、その一方で、自分の運命を呪い、親を恨みながら屈折した人生を送っている人が存在する可能性も、充分に考えられるからだ。「乙武氏にとって」彼の障害は、彼の個性が形成されるにあたって、無視できないものだったと思う。少なくともその形成過程に着目する限りにおいては、彼の障害と彼の「個性」とは不可分な関係にあると見てもよいだろう。
しかしそのことと、障害それ自体が「個性」だということとでは、全く意味が異なる。人間が個人としての「人となり」を形成するにあたって、その背景には生育史や社会階層、職業や役職(社会の中での立場)、経済状況、その他の条件が複雑に絡み合っているはずなのである。障害の有無や種類はせいぜい、それらの諸条件の中の一つに過ぎない。(りゅこ倫・個性とは何か)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin81.html
として、「単に障害を負っているという事実だけでは、障害者の「人となり」を判断するのに不充分な材料にしかならない」と述べました。
そもそも、「障害個性論」は、はじめに身体障害者の方が主張し、その後、この言説が一般の健常者に受け入れられて広まった経緯があります。健康体の人なら、「自分の長所は伸ばしたい。短所は直したい」と気軽に口に出せますが、障害者の方は、身体障害ゆえに、その人のすべてが否定されるということがあり、そういう背景から、このような言説が出てきたと考えられます。
誰もが五体満足であることを願う中で、身体障害とは本来は、否定的なものとみなされがちなものですが、身体障害者の人たちは、自らの障害を価値ある「個性」という言葉に置き換えて生きてきた面があります。
障害ある方が、それを乗り越えて自分の才能を開花させていくその努力が素晴らしいのであり、障害そのものは個性とは言い難いので、そのあたりはきちんと見極めるべきでしょう。「障害」そのものに個性があるのではなく、努力して才能を開花させた「その人」そのものに個性があるのです。
神名女史は
「自由」や「平等」も同じだが、「個性」という言葉もまた、現代においてその意味が充分に考えられていないままに、あまりに安易に乱用され過ぎているのではないだろうか。こういった言葉を使えば、何事かを考えたつもりになれるようなターム(用語)がある。これを仮に、「擬似思考用語」と呼ぶことにしよう。どんな言葉が「擬似思考用語」に含まれるかは、思想的な流行の問題である。だが私の印象では、その大半は「思考」というよりも、単なる「言い換え」に過ぎない。
例えば「個性」という用語を使うことによって、身障者に対する差別が解決できるわけではない。悪意さえあれば、身障者に対して「なんとも個性的な身体だね」と揶揄することも可能だからだ。さしずめ性同一性障害などは「きわめて個性的な性別」とでも呼ばれることになるだろうか。差別用語の禁止を「ネガティブな言葉狩り」と呼ぶとしたら、「個性」等の「擬似思考用語」の使用はいわば「ポジティブな言葉狩り」である。だが、そこには差別の本質は存在しない。どちらの言葉狩りも、いつまでも差別という現象の周囲をウロウロと徘徊するだけで、問題解決のために差別の本質に迫ることは不可能なのだ。(りゅこ倫・個性とは何か)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin81.html
と述べて、いたずらに「個性」という言葉を乱用して、差別の実態を逆に直視しない現実や、「言い換え」に終始して現実の差別が改善されない現実を示唆しています。
わたしたちは、誰もが何もかも自分の思い通りに生きられるわけではなく、健常者であっても、身体の老化は避けられませんし、事故にあえばいつ身体障害者になるかわかりません。自分の身体が思い通りにならない局面も、人生に無いとも限りません。
それでも、努力して、何とか自分の才能を発揮すること、自暴自棄にならないことが素晴らしいのであり、「個性」はそこから作られるものです。人間が思い描いたことは、どんな形であれだいたいは実現しますし、努力すればある程度は実るものです。
個性とは、個々人の努力の結果、その人らしい才能が開花することであり、表面的なファッションや奇抜な髪型のことではありません。どんな状況でも、自分の運命を受け入れ、自分を見失わないこと、それが個性なのです。