自分と彼(彼女)

社会の最小単位である「自分」と「彼(彼女)」について考察しました。

2008年1月8日

○自分とは自分固有の可能性である

 わたしたちは、苦しいことや辛いことがあると、「言葉」を求めるものです。インターネット上の掲示板には、多くの悩み相談が投稿されています。悩みを街角の占い師に打ち明けて、アドバイスしてもらう人もいますね。

 でも、悩みがあるからといって、哲学書を開く人は、あまりいないものですね。

 でも、「悩みを持つ」ということは、哲学をする充分な動機に、なりえるんです。わたしたちは、悩みや苦しみに直面したときに、それを解決しようとする「問題意識」がなければ、「哲学する」という行為はなかなかできません。哲学をするには、自分が抱えている問題を解決しようとする「目的」あるいは動機が必要です。

 神名女史は

 

(前略)「考える」というのは、自分にとってどうでもいいことを考えるのではなく、自分にとって大切なこと(問題)について考える。言い換えれば、自分自身に考える動機がある事について考えるのである。では、自分にとって考える動機があることって、何だろう。それが上に書いた、苦悩や挫折、劣等感や疎外感といった、自分の人生の中で生じる問題なのである。(りゅこ倫・哲学の味わい方)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin46.html

 

と述べています。

 悩みに直面した時は、哲学への扉が開くきっかけになりうるのですが、たいていの人は、哲学書を開くよりは友達に相談するか、占い師のところに行ってしまいますね。なぜなんでしょうか。哲学は判りづらい?

 そうなんですね。

 神名女史が

 ただ、初めからすべて自分で考えるのは大変だけど、そんな時に似たような経験を持っている人から話を聞いて参考にしたりすれば、考えやすくなる。哲学書には本来、そういった知恵が詰まっている。それはいいんだけど、たいていの場合は困ったことに、水を飲もうとして袋をあけると氷が入っていて、それを自分が飲めるように溶かさなければならない。つまり、判り難くて、とてもそのままでは「自分の問題」に使えない。(りゅこ倫・哲学の味わい方)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin46.html

 

 と述べるように、自分が苦しんでいる問題と、多くの哲学者たちの言葉がどうつながっているかがわからなければ、わたしたちは哲学者の言葉がただの文字の羅列に見えてしまうのですね。

つまり、水を飲もうと思ってもそこに氷しかなくて、そのままでは飲めないものになってしまうのです。それでは、精神的な渇きは癒されませんね。

人は言葉によって癒される存在なのですね。

哲学をするには、まず、自分が直面する問題が何であるか、あるいは、自分自身でさえ認めたくない自分の本音を自分で直視しなければなりません。自分が抱えている問題と、多くの哲学者たちの言葉がどうつながっているか認識できれば、解けた氷を飲料水として飲むことも可能になります。

「ごちゃごちゃ言ってないで、今すぐ水が飲みたいんだよ!」と言っている皆さん。またしばらくご辛抱お願いします。

 

 わたしたちは、しばしば、自分自身に不満を持ち、「自分が自分でない気がすることがあります。どこかに本当の(理想の)自分がいるのではないか」と思ったりするものです。

また、自分の人生が実りあるものだと感じられなければ、虚しさのあまり、「今が楽しければ良い」「適当に生きていけばいい」と目先の要求や代用の快楽に身を任せることもあります。その結果、周囲の人間関係に悩み、人と本当に気持ちが通じ合うことがなく、表面的な人間関係に終わることもあります。

 神名女史は、人はそんな時に自分に弱者のレッテルを貼るのだと述べます。弱者のレッテルとは「俺はどうせこの程度なんだ」と自分で自分を決め付けてしまうことですね。

 でも、他人に「おまえはどうせこのレベル」ということが侮辱であるように、自分自身を「俺は弱者なんだ」と決め付けることも、自分への侮辱かも知れないんですよ。

 神名女史は、人が困った立場に追い込まれ、自分を弱者だと決め付ける時のことをこのように

 

一言でいえば、それは自分が置かれた状況に不満を持ち、しかもその解決が自分には不可能だと思った時に起きやすい。おおまかに分類して三通りの方法があるかな。実際にはそれらの複合型も存在するみたいだけど。

 まずひとつは解決を他者に求める、つまり文字通り自分に「弱者」のレッテルを貼って、「誰かなんとかしてくれ」という方法。あるいは、自分に「弱者」のレッテルを貼ることで、ただ自分の不遇を他者(社会とか、制度、歴史、親、家庭、学校、会社など)のせいにして恨み言を言い続ける権利を得たような気になる方法。これが二つ目。一番目と二番目は判りやすい例だよね。

 三番目は一見するとこれらとは違って見えるけど、やはりまったく同じ構造を持っている。それは「価値の逆転」、つまり自分の不遇な状態が実は不遇ではないのだと自分に言い聞かせることで、かろうじて自己の不満の抑圧に成功する方法。それで済む場合にはまだいいけど、問題の解決の回避なんだから、当然何も解決するはずがない。(りゅこ倫・強者とリアリズム) 

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin10.html

と3パターンに分けて書いてます。でも、まあ、どっちもどっちですね。

 つまり、人間は解決が不可能と思われるような問題に直面して不満を持つときに、

(1)自分に弱者のレッテルを貼り、解決方法を他者に求める

(2)自分の不遇を周囲の環境のせいにして責任転嫁する

(3)自分が不遇な状況は、実は不遇ではないのだ、と自分を偽る

の3つの行動をとり、その結果、問題は解決せず自分で自分をだます状態が続くことになります。こんなことを続けていても、問題は解決されず、自分への不満も解消されることはありません。

 

では、自分が納得できる「自分」を作り上げるのは、どうすればよいのか。

人間とは、可能性に向かって「欲望」する存在です。可能性とは「未来のさまざまな自分」であり、人間は、未来を信じるから生きていける存在なのです。

未来がない、つまり、「未来への可能性が閉ざされた」と感じるから人は絶望するのです。自分にはどのような可能性があるのか、ないのか、それは個々人が自分を直視し、ノートにでも書き出して自分で検討する必要は当然あります。ノートに書き出してみたら、今、できることは意外と多いと感じたりします。

ほら、出来るか出来ないか、わからないときに「検討します」と言うじゃないですか。「検討します」て言うときは、本当は、それだけでも解決への一歩になっているんですよ。 

 

でも、それよりも何よりも、「自分に希望がない」と自分を規定することは、他人に「お前には未来が無い」と決め付けることと同じように、罪だし、短絡的な思考なんだ、と気づいてほしいのですね。

そして、出来ることはやってみるべきです。自分の可能性を信じるためには、自分が具体的に実行できるものを探さなくてはなりません。

では、自分の可能性とは、どのような性質を持つものでしょうか。

神名女史は、

 

ところで、私達が何らかのモノもしくはコトに出会うとき、それが何であるかが判るとすれば、それは何らかの可能性が示されたということを意味します。日常生活の中でモノが判るということは、そのモノが「何のためのものか」を知っている、「利用可能性」をつかんでいるということです。

 例えば今、私の目の前に漫画があるとすれば、それは私にとって「読んで楽しむ」ものです。もちろん同じ漫画でも、この「利用可能性」は人によってさまざまで、別の人にとっては自分が漫画を描くために参考にするものであり、また別の人にとってはカップラーメンを作る時にフタの押えに使うものであるかも知れません。つまり、「利用可能性」というのは、あらかじめモノに備わった性質ではなく、それを示された人にとって「何であるか」ということです。

 目の前にモノが現れることは、そのモノの「利用可能性」を示されることですが、それは同時に、その人自身の可能性が示されることでもあります。つまり、私にとって「読んで楽しむ」ものとしての漫画が現れたということは、同時に「漫画を読んで楽しむ」という私自身の可能性が示されたということでもあるわけです。この私自身の可能性を「存在可能性」といいます。つまり私の目の前にモノが現れるということは、私の「存在可能性」と、モノの「利用可能性」とが同時に示される(開示される)ということになります。そしてこの開示されてくる働きを、ハイデガーは「開示性」と呼んでいます。 

ここで、「自分」とは何かということをもう一度、別の言い方でいうと、「自分」とは、自分固有の存在可能性であるということになります。

 ここでまた注意が必要なのですが、この「開示性」は、まずモノを評価する人間(の主観)が存在していて、それがモノに対する意味(利用可能性)を付与すると考えるのではなく、人間の「存在可能性」とモノの「利用可能性」とは同時に開示されると考えるのです。つまり、「読んで楽しむ」ものとしての漫画が私の目の前に現れたから、私が漫画を読んで楽しむ可能性も同時に現れたということです。(ジェンダー素描34・実存への冒険)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign34.html

と述べています。

 

 先ほど、わたしは、現象学的還元について、

リンゴがある(原因)からリンゴの像が見える(結果)ではなく、結果(リンゴの像が見える)から、原因(そこにリンゴがあるという確信が成立する)というように置き換えてみる」と言いました。

 リンゴを見ている「わたし」という存在の可能性だけではなく、リンゴにしてみたら、「食べてもらえる」可能性が同時に存在するんですね。

 これを、リンゴじゃなくて、「あなたが素敵だと思う人」だったらどうでしょうか。出会いがあるということは、「素敵な人を見ているあなた」がいるだけではなく、その人にしてみても、「あなたから何らかの情報を受け取る可能性を持つその人」という可能性があるのではないでしょうか。

 神名女史は、「自分とは自分固有の可能性だ」と述べた上で、

 この、「可能性の到来」については、次の二点の注意が必要です。まず一つは、この「可能性の到来」は自由意志による自己決定ではないという事。私達は、「突然コーヒーが飲みたくなる」のであって、可能性の到来は自由意志的に生じるわけではありません。逆に、コーヒーを飲みたいと欲望してから、実際にコーヒーを飲むか、それとも我慢するかという自己決定をするのです。もう一つは、可能性の内容は、まったく恣意的なものではないという事です。コーヒーの存在しない社会に生まれれば、「コーヒーを飲む」という可能性が到来する(欲望する)ことは有り得ません。そういう社会では、「コーヒーを飲みたい『私』」は存在する事は有り得ないのです。つまり欲望はまったく恣意的ではなく、「私」がどういう社会に生きているかによって、既にある程度方向づけられているのです。

 ここから言えることは、「私」とは私が生きる世界(社会)の中での、私のさまざまな可能性の総体であるという事です。つまり、「私」という確固とした存在があるのではなく、「私」は常に私が生きるこの社会と関わり続けることで「私」であり続ける事が出来るのです。判りにくければ、ここでいう「私」をご自分の名前、あるいは「神名龍子」に置き換えてみてください。

 「神名龍子」が持つ可能性は、失われたり、新たに生じたりします。可能性は総体として、「神名龍子」と「神名龍子が住む世界(神名龍子に生きられる世界)」との関係を形作っています。「神名龍子」が変われば「神名龍子に生きられる世界」が変わり、「神名龍子に生きられる世界」が変われば「神名龍子」が変わるのです。(ジェンダー素描34・実存への冒険)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign34.html

 

と述べています。「神名龍子」という人は、鉄や銅像のように固体として存在しているのではなく、生きていて周囲の社会と関わりを持つことで、可能性がいろいろ失ったり新たに生じたりして、神名女史の内面が変われば、周囲も変わるし、周囲が変われば神名女史のあり方も変わってきます。

わたしたちも同じように、自分が変われば、自分の周囲の世界も変わってきますし、周囲が変われば自分も変わらざるを得ません。

 キルケゴールは「死にいたる病」という本の中で、

「自己とは何であるか、自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」と述べています。これは、自己とは「関係そのもの」ではなくて「関係する」ことである、と要約できます。ここでの自己と「関係」とは、自分が周囲の何かと自ら関係していって自己を決定していく、運動性のあるものです。

キルケゴールにおいては、自己と結ばれる「関係」とは、神ですが、わたしたちにおいては、「自己」とは、自分自身に関係するだけのものではなく、自己とは、同時に自分を措定した他者と関係を持つことで成立しています。

つまり、「自己」とは、一つの実体というよりは、むしろ連続した「関係」の総称なのです。

現在の自分に不満がある時、わたしたちは「どこかに本当の自分がある」と思いがちですが、そうではなく、自分とは他者と関係する中で自分が作っていくものなのです。

 

ヘーゲルは、人間の精神には、二つの特徴があると考えました。

(1)人間は経験を通じてそれまでの価値観や世界観が変化していくし、経験の積み重ねによって多様な価値観が人の中に創られる。

(2)人間は、「自分」というものを持っていて、それを価値あるものとして、他人にも認められたいし、自尊心を満足させたい。

 この二つが、人間の行動の根底にあるものだとヘーゲルは説明しました。

 わたしたちは物事を「本当か嘘か、良いか悪いか、美しいか醜いか、好きか嫌いか」と瞬時に判断しています。わたしたちはいろいろな経験を積み、多くの人と会うことによって、今までと違った価値観を手に入れ、「新しい自分」を作ることができるのです。

知るということは、単に何かを覚えることではありません。知識とは、わたしたちの心のあり方を変えるものです。

恋をした人が見る桜は、恋をする前に見た桜と同じではないでしょう。初めて子供を生んだ母親が見る桜は、出産を経験する前に見た桜と違って見えるはずです。

 

神名女史はさらに、可能性を具体的にする方策として、

与件の範囲内において、自分に出来る事、自分がやるべき事をする以外には、自分の可能性を実現する方法はない。とはいえ、時にはたいした努力もなしに幸運を得ることは確かにある。しかし、幸運をアテにして努力を怠るのは、単なる運任せの人生でしかない。そういう生き方を選ぶのは自由だが、その場合もまた、自分が選んだ生き方についての責任は当然、本人が負うべきものである。(中略)

話を戻そう。自分が自分の可能性を追求する場合には、自分が置かれた状況を見る必要がある。人間が「ありつつ、あろうとする」実存的な存在であるいう、この「あろうとする」自分は、決して現在の自分だけからは出てこない。それは、自分の与えられた条件を取り込むことによって成立する「自分」だからである。同様に、現在の「自分」もまた過去にそのようにして成立したはずである。そういう意味では、世界は一つの連続した関係であり、どのような人間であろうとも、誰一人として自分が置かれた状況から独立した存在としての人間はいない。人間同士だけではなく、人間とモノの関係も同じである。(りゅこ倫・自分の可能性)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin53.html

 

と述べています。自分を創るということは、いろいろな経験を積んで自分で自分を創ることなのです。それは他者との関わりの中で形成されるものです。実際に一歩踏み出す行動が大事なのですね。

 

人間は自己を意識する存在であり、自意識を持つ生き物であす。ヘーゲルは、「自意識」の中に、

(A)自分に関わることは自分で決定したいという【自律】(自己決定)への要求と、

(B)自分を他者から価値あるものとして認められたいという【承認】への要求とが含まれている、と考えました。一般的には、「自由」と言われるときには、「自律」のみがイメージされるが、ヘーゲルは、他者からの承認も自由にとって欠かせない、と考えました。

 わたしたちは、承認を獲得するために、さまざまな試みをするものです。他者と争って、自分のほうが力が強いことを誇示することもあるし、中には他人の悪口を言って、自分を正当化する人もいます。

しかし、ヘーゲルは、こんなやり方では、「真の自由は得られない」というのです。では、どのようなやり方をすれば、真の自由は得られるのか。

 わたしたちが、絵や料理や俳句などを作ってみるとします。最初はただ作るだけでも面白いけれど、他人が作った作品に自分以上のものを見つけると、自分ももっと優れた作品を作りたいと思うようになる。自他共にその価値を認めるような作品を作りたいと思うものです。人は、本当に価値あるものを作って、自分だけではなく、他人からも「価値あることをしている人だ」と承認されるとき、自由を実感できるのだ、とヘーゲルは述べたのです。

 納得できる自分を創るために、多くの経験をしよう。自分自身のあり方を変える新しい「何か」を知りましょう。

 そして、本当に価値あること、自分だけではなく他人も認めてくれる何かを見つけましょう。この二つは別々に存在するのではなく、同じものの裏と表なのですから。

 自分と向き合うとは、不完全な自分を視ることではないんです。

 「可能性を残した自分」を発見し、ありのままの自分を認めることなんです。今、これを書いているわたしは、つまらない中年女ですけど、こんなわたしにも可能性は何かしら、あるんです。

 わたしは今、これを楽しんで書いています。書くことも楽しいし、新しいことを理解することも楽しい。そして、今書いているものが、誰かの役に立つ予感や可能性を感じているから楽しいんです。


  • ○わたしたちの個性
  • ○恋愛は幻滅してからが始まりである
  • ○生きること、死ぬこと
  • ホームページ制作、ホームページ作成歯医者SEOインプラントインプラント0004495400044954