自分と彼(彼女)

社会の最小単位である「自分」と「彼(彼女)」について考察しました。

2008年1月8日

○自分が存在するということ

 わたしたちは、「自分」が存在していることを疑う人はただの一人もいません。自分が今ここに存在しているということを、今、「自分が」体験しているからです。

 

 しかし、神名女史の不思議な世界への冒険をするために、わたしたちは、「自分が今、ここに存在している」ことを今しばらく、疑ってみましょう。

 もしかして、「自分の存在を疑う奴がいるか、馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑う方もいらっしゃいますでしょうが、ここはひとつ、ご辛抱のほどをお願いします。

 これを読んでいる皆さんにも、いろいろお悩みがあるかと思います。悩みっていうと、たいていは、金の悩み、恋愛(セックス)の悩み、健康不安、家庭の悩みというのが相場ですね。

 ここで、「苦しんでいる自分は、本当の自分ではない」と、ちょっと考えて見ます。人間は、必ず自分なりの価値観で他人や社会を見ているものです。

「恋人にするなら、ブスより美人が良い」「結婚するなら年収1千万以上」なんていう価値観で他人や社会を「観て」います。

 今までこんなふうに、自分の価値観のものさしを用いて、他人を観たことの無い人、これを読んでいる中でいますか?絶対にいない、とわたしは思っています。で、そんなふうに他人を観る目で、自分自身を観てしまうから、結局は苦しんだり自己嫌悪に陥ってしまう、つまり、人は自分で自分を縛っているのですね。それが「執着」というものです。ただ、こんな価値観が悪い、と言っているわけではありません。それを否定するのではなく、少し疑ってみましょう。

 その自分の価値観に縛られている「自分」を、「幻想の自分」だと思ってみましょう。

 「結婚するなら経済力のある男性」と思っている「自分」を、幻想だと思ってみるのです。幻想だと思った上で、その「自分」だと思っていた人格なり価値観なりが、いつごろから作られたものか、皆さんは考えたことがあるでしょうか。「経済力ある男性と結婚したい」という価値観を持つ「自分」も、何らかの価値観や文化のうえに作られた存在ではないのか、と疑うことが大事なのです。

 一般的には、このような価値観の刷り込みは意識して行われるものではなく、無意識の産物です。「経済力ある男性は素晴らしい」という価値観を、人間は意識して持つことはありません。気がつくと、いつのまにか思っていた、というようなものです。

 神名女史は

 考えてみると、私達が常に行っているにもかかわらず、それが「意識」によるものではないという事がある。例えば「意味分節」がそれである。私達はたいていは、自分が生きる世界を意識的に意味分節しているのではなく、むしろ意識は「無意識的に」意味分節された結果(意味や世界観)を受け取っているに過ぎない。この「無意識的な」意味分節を、ここでは意識が受け取る前段階においての判断という意味で、「前意識的な判断」と呼ぶことにする。(りゅこ倫・無意識とは何か)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin62.html

と述べていますが、要するに、「ブスより美人がいい」という価値観を意識して身につけた瞬間など誰も覚えていなくて、気がついたらそう思っていたのですね。

 これを読んでいる皆さんの中で、日本で生まれ育った人がいたら、意識して日本語を覚えたわけではありませんね。気がついたら話せるようになっていましたね。

「俺は北海道生まれの在日韓国人だが、日本語を覚えたほうが有利だから覚えようか」

と3歳ころから意識的に思って覚えた人は、いないはずです。 

 自分と向き合う、ということは、「無意識に形成された自分を疑え」ということにつながるのですね。それは、自分の無意識に入っていくことにも似ていて、だから、自分と向き合うことは辛いのですね。

しかし、皆さん、誤解しないでください。「疑う」ことは、「否定」することではありません。

「俺は、交際するならブスより美人がいい。でも俺は自分の顔に自信が無い」とか思っている自分を「疑う」ことは、そんな自分を否定することと違います。「疑う」とは、「そんな価値観や自己否定自体が、無意味なことではないか」と考えてみることなのです。

そう考えてみたら、「自信の無い俺」というのは、何らかの比較から生まれた自己嫌悪の対象としての自分ということになります。「ブスより美人が良い」という他者の比較がまずあって、それを自分にも投影しているからですね。

こうやって考えると、自分の存在をちょっと疑ってみることも、まんざら、ばかげたことでもないと納得していただけましたでしょうか。

こんなふうに自分を見つめる作業は、楽しいものではありません。しかし、どうか皆さん、今しばらくご辛抱ください。

 

 わたしが今、リンゴを見ているとします。(哲学的考察になると、やたらとリンゴが喩えに出てきます。なぜでしょうね。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て引力の法則を考えた、と言います。エデンの園にいたアダムとイブはリンゴを食べてエデンから追い出されたとも言います。人類にとって、新しい発見とは、リンゴによって行われるものかも知れません)

 リンゴを見ているわたしは、「リンゴの像」とそれを受け取るわたし自身の「精神」を、認識の主体と客体という「別々の存在」として捉えているでしょうか。

 いや、そうではなく、わたしは「リンゴの像」は認識しますが、それを受け取る「精神」は認識していません。

 コンサート会場で、ジャニーズ事務所のアイドルが歌い踊っている場面で、きゃーきゃーと熱狂している女の子たちは、タレントの何々さんの像を受け取って、それに対して熱狂していますが、女の子たちは、その時、その像を受け止める自分の「精神」になんぞ、これっぽっちも注意を払ってないはずです。

 言い換えれば、 この場合の「精神」とは、「認識」がある以上は、「認識する主体」があるという「思い込み」を前提として成立するものなのです。

つまり、わたしたちは、アイドルさんを「認識」し、きゃーきゃー熱中している「女の子」という主体があるという前提で、認識した像を受け止める「精神」があるのだと想定しているのです。

 で、ここで、フッサールが「主観・客観」の枠を取り払ったように、「主体・客体」と言う枠を外してみます。

 実際にあるといえるのは、「美少年アイドルさん」という「認識内容」だけだとします。それも、「認識」という働きがあって、「認識内容」が得られるのではなく、むしろ、わたしたちは、その都度「認識内容」が与えられることによって、「認識」という働きの存在を確信しているのですね。

その意味では、わたしたちは、「認識内容」は認識していますが、「認識」そのものは存在していないのですね。

神名女史は

 

 認識」とはその都度の「認識内容」そのものであって、「認識内容」を取り払った「認識」そのものは存在しない。つまり、フッサールの師のブレンターノが「意識は必ず何ものかについての意識である」(意識=意識内容)と喝破したように、(同じ事だが)「認識=認識内容」なのだ。(りゅこ倫・私という確信)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin67.html

と述べています。言葉は難しいですが、要するに、美少年アイドルさんにきゃーきゃー言っている女の子たちは、美少年アイドルさんを「認識内容」として認識していますが、それは「アイドルさん」と言う対象があるから認識しているので、アイドルさんを抜きにした「認識」ってものはないのですね。

 「認識内容(美少年アイドルさん)」を抜きにした「認識」そのものが存在しない、と思うと、「精神」はどこに行ったのでしょうか。

 わたしたちは、美少女・美少年が不細工さんより「可愛い・良いもの」などの価値観を持つ結果、コンサート会場でアイドルさんに熱狂するのです。あるいは「結婚するなら年収1千万以上の男の人」とのたまわるのです。

 だけど、その価値観を刷り込まれた「認識内容」を取り払った「認識」そのものが無いとしたら、じゃあ、それらの価値観をはずしたわたしたちの「精神」は、どこに行ったのでしょうか。

 神名女史は

 

 そう考えると、「精神」の存在すらも疑わしくなってくる。というのは、いわゆる「精神」の活動とされている諸機能さえ「認識=認識内容」に還元できるからだ。例えば「思考」はその思考内容が「認識=認識内容」として現れ出る事によって初めて「(私は)考えている」ということが認識可能なのだ。そう考えると「私」とは、現れ出る「認識=認識内容」そのものであるという事になる。それ以外に、どこに確固とした(実在としての)自分が「ある」といえようか。(りゅこ倫・私という確信)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin67.html

 

と恐ろしいことを書いています。

 まあ、実際には、「認識内容(こだわるようですが美少年アイドルさんですね)」を抜きにした「認識」そのものが存在しないから、といって、自分の精神や「自分の存在」を疑う人は、いません。神名女史だって、自分の存在を疑っているわけではありません。

 神名女史はさらに、

 

 こう書くと、ほとんどの人が「そんな馬鹿な、無茶苦茶だ」というだろう。それは当然のことで、なぜなら、デカルトも含めて、実際には自分の存在を疑う人はまずいないからだ。私自身、実は自分がこの世に存在しないのだと本気で考えているわけではない。ではなぜこんな事をいうかというと、自分の存在を確信しているにもかかわらず、「認識=認識内容」以外の存在証明が不可能だからだ。しかし、「私」という存在が客観的に存在しているかどうかという事と、私が「私」の存在を確信しているという事とは本質的に別問題である。

なぜなら、「私が存在している」という「認識=認識内容」が現れているという事、それ自体は疑いようがないからだ。もちろん、「私」という存在が客観的事物として存在しているかどうかは証明できないし、したがって、「私が存在している」という「認識=認識内容」が、事実と一致しているかどうかを問う方法もない。「私の身心」についても同じことで、まさに「無我」であり「身心脱落」である。(りゅこ倫・私という確信)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin67.html

と書いています。

 わたしが、アイドルさん(若いつばめでもいいんですけど)に熱狂しているとして、アイドルさんという「認識内容」はあっても、それを受け取る「認識」そのものは無いとしたら、わたしの精神がどこに行ったのか、わからなくなります。「わたし」という人間が客観的に存在している、ということと、わたしがわたしの存在を確信しているというのは、別の問題になってしまいます。

 「わたし」という人間がさまざまな事物を認識しているのではなく、「わたし」という存在も「認識=認識内容」なのですね。つまり、若いツバメや美少女アイドルさんを認識する主体としてのわたしがいるのではなく、「認識=認識内容」そのものが主体となるのですね。 

 神名女史は

 

 「私」がいて様々な事物を認識しているのではなく、「私」という存在(あるいは「私」という概念)もまた、現れ出る「認識=認識内容」なのだ。「認識」があるから認識する主体としての「私」があるのではなく、「認識=認識内容」そのものが主体なのだから、「誰が認識するのか」という問い自体が、ここでは一度無効となる。より正確にいえば、ここでは「主体−客体」の区別そのものが無意味になる。

 だから次に必要な事は、デカルトのように「私」の存在証明をすることではなく、「私」が存在するというその確信成立の条件と、「私」の意味本質を問うことなのだ。つまり、「私」があって「認識=認識内容」があるのではなく、「認識=認識内容」があって「私」(という概念)があるのである。(りゅこ倫・私という確信)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin67.html

 

と述べています。となると、「わたし」という人間が主体として「美少女アイドルだぁ」とか認識するのではなく、これを認識する「認識内容」があって、わたしという概念がある、ということになります。

 じゃあ、わたしたちが持つ「女は顔が良ければ」「金の無い男と付き合いたくない」「翻って自分は劣等感がある」と思うこれらの価値観は、「実体としてのわたし」が存在することの確信を成立させる「執着」として、後天的に刷り込まれたもの、ということになり、ここに「本当の自分」はいない、ということになります。

 神名女史は、 

しかし人は通常、「実体としての私」の存在を信じて疑わない。ここでは、この確信を成立させる要因を「我執」、この確信を「自我」(我執による自己像)と呼ぶことにしよう。「実体としての私」、つまり自我とは「仮構の私」である。

私も含めて、人々が「仮構の私」を生きているということそれ自体を私は否定しない。しかし、それが「仮構」である事を自覚せず、「実体」だと思い込んでいることには問題がある。(りゅこ倫・私という確信)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin67.html

と述べています。「これが自分だ」と信じてきた自分も、何かへの執着から構成されたものなのですね。自分を疑うことによって、「実体としての自分」と思い込んでいたものが実は虚構ではないのか、と思うこともできるわけです。

 神名女史はさらに

「私」という概念についていえば、「実体としての私」(自我)のあるを知って「無我の私」を知らないのは自己執着の病の元である。逆に、すべてを相対化して「実体としての私」をひたすら否定すれば、これは自己喪失の病である。(中略)

人は皆、本来は「無我の私」としての在り方を基底に持っている。そして、その事に気づいていようといまいと、「無我の私」の上に「実体としての私」(自我)を築いて、その「生」を生きている。とすれば、「本来そういう在り方をしている」のだから、それについて特に改めて考えなくてもよいのではないかという人もいるだろう。そういう人は昔からいて、「無事禅」といって非難されてきた。なぜなら、本来「無我の私」としての在り方をしているという事と、それを自覚しているかどうかという事とは別問題だからだ。この気づきの有無で、その人の「生」の在り方が変わるといってもいい。(りゅこ倫・私という確信)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin67.html

と述べています。

 わたしたちは、その「時代」に応じた一般的な物語や価値観から逃れることはできません。幕末の江戸近郊の農村青年で、少し剣道の心得ある青年は「武士道」に憧れる、あるいは現代ならブランド物のバッグに憧れる、など時代に応じた物語があり価値観があって、わたしたちはそこから完全に離れることはできないものです。

 でも、気持ちだけでも、いったん離れてみるのです。そして、「ブランドバッグ」や「高級ホテルでのディナー」といった現世の憧れをいったん消してみるのです。

 そうしてみれば、「対象」は時代によって違いますが、こんな自分はいつの次代にも、いつの社会にもいた、と気がつきます。そのことで、もっと自分を好きになれることもあるのでは、と思います。

 人は多かれ少なかれ、悩みがありますし、自分を完全に肯定している人もなかなかいないものです。わたしは、そんな普通の人にこそ、哲学に興味を持っていただき、時には「自分の存在」を疑う(くどいようですが、否定するんじゃないですよ)ことをやって、自分が囚われている価値観がどこから来たか、考えることがあっても良いと思うのです。「実体としての自分」と思っているものが、実は虚構なのかも、と疑うのは、あるいは、「無我の私」に気がつく一歩なのかも知れません。

 もしかしたら、そう思うことで、悩みが少しでも軽くなるかも知れません。わたし自身も、神名女史の評伝を書くことで、誰か一人でも、自分に囚われることが少なくなり悩みが消えてくれたら、いいなあ、と思っています。


  • ○自分とは自分固有の可能性である
  • ○わたしたちの個性
  • ○恋愛は幻滅してからが始まりである
  • ○生きること、死ぬこと
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