2008年1月9日

○人権はどこから来たのか

 
 2007年5月10日、熊本県の病院に、親が育てられない赤ちゃんを保護するための「赤ちゃんポスト」(正式名は『こうのとりのゆりかご』)が設置されました。この是非をめぐって論争がありました。

 設置反対派は、
「育てられなくて赤ちゃんを殺す親は、ポストがあっても無くても殺す。赤ちゃんを育てられなかったら捨てれば良い、という無責任な風潮を作り、若者の性の乱れを増長する。子供の命は救えるかもしれないが、子供の人権はどうなる」
賛成派は、
「そもそも、殺されてしまったら、赤ちゃんの人権は亡くなってしまう。命を救うことが大前提」
というように、意見が分かれました。
 半年後に、そこに預けられた赤ちゃんは11人に達したことが報道され、改めて「赤ちゃんの人権」について論議されました。
 賛成派も反対派も、赤ちゃんが死ねば良いと思っているわけではありません。人間の命は大事なものだと踏まえたうえで、設置反対派は、「社会的秩序を乱し、風紀紊乱につながる」と反対し、賛成派は、「社会的なことよりも、まずは目の前の命を守ることが大事で、すべてはそれからだ」とするものです。
 放っておいたらすぐに死んでしまう小さな命を前にしたら、まずはその子供のことを助けることが先でしょうか、それとも、社会全体のことを考えると、社会の秩序を重んじる場面が必要でしょうか。でも、赤ちゃんに必要なのは、社会の秩序よりは「親の愛」でしょうね。これがあって初めて、「社会の秩序」を考えることができるのでしょう。
 世の中には、生まれてくる子供どころか、自分自身でさえ愛せない人が残念ながら、います。どうしようもないことなのでしょうか。
 このように取りざたされる「人権」ですが、これは、どのように与えられたものなのでしょうか。人権とは神が与えたものでしょうか。

 思想家のロックは、
「人間が国家をつくる以前の自然状態においては、人間は生まれながらにして、生命・自由・財産を確保する権利(自然権)をもっており、この自然権が侵されないように、各人は共同でこれを守るため、お互いに約束をして(契約を締結して)国家をつくった(社会契約説)」

として、人間は、人権は生まれながらに持っているものだと説きました。
 神名女史は、
 天賦人権説は近代思想の中でも例外的なものなのだ。ホッブズが天賦人権説を採らないのはもちろんだが、ロック以降のルソーやヘーゲルなどもこれを明確に否定している」(りゅこ倫・三流保守が思い描く『国家の品格』)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin112.html
と言いますが、しかし、この考えはかなり一般的に伝わっているもので、人権は人間が生まれながらに持っているものだ、と多くの人々は漠然と思っているようです。むしろ、これを否定するほうが、異端思想に思えるくらいです。

 その理由としては、この「天賦人権説」が、アメリカの独立宣言にも「我々には自明の真理として、創造主によってすべての人は平等に創られ、一定の奪いがたい権利を付与され、その中に生命、自由、幸福の追求が含まれることを信ずる」

と述べられ、さらにフランスの人権宣言にも用いられていて、あまりにも有名になってしまったからですね。
 神名女史は
近代思想の中にもロックが唱えた「天賦人権説」のようなものがありますが、これは実は近代思想の中では異端であって、その後のルソーやヘーゲルは、この考え方をはっきり否定しています。
それにも関わらず、アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言などで表現的に採用されているために、まるで「天賦人権説」が「人権」の根拠のように誤解されています。だけど、どちらの宣言もよく読めば、実は「天賦人権説」とは矛盾する条項が存在することに気付きます。たとえば人権宣言(フランス)には、
『第4条 自由とは、他の者を害しないすべてをなしうることをいう。各人の自然的権利の行使は、社会の他の者に、同一の権利を享有させることの外に制限されない。この制限は、法律によるのでなければ、設けてはならない。』
とあります。誰も犯すことの出来ないはずの天賦の人権を、人間が作った法律によって制限できると明言しているわけです(笑)。そうでなければ、死刑に限らず、いかなる刑罰も人間が作った決まり事として課すことはできません。刑罰が存在しない国家はありませんから、本当に「天賦人権説」を原理としている国家は存在しないということになります。(ネットでの投稿)

http://masa-n.at.webry.info/200711/article_26.html
と述べています。

 わたしが今、ジャングルの人食い虎の前にいるとして、虎に「わたしには生まれながらに生存権がある」とわめいたところで、虎はそんなことには目もくれず、わたしを襲って食い散らし、わたしの死体が出来上がるでしょう。人権は、社会の中の約束事として存在するものであり、言葉の通じない動物の前では人権など成立しませんね。人権は、天から授かったものではなく、社会の約束なのですね。
 人権といっても、どこの誰でも平等に保証されるべき生存権(生命・身体・財産などを守る安全の保証)と、民主主義を構成するための要件である「参政権・表現の自由」などの2種類に大別され、参政権は日本国籍を有しない人には与えられないなど、制限はあります。しかし、生存権は、どこの誰でも保証されるべきものです。
 神名女史は生存権について、
「私」には、つまり私達には「生きる権利」があるのではなく「生きたい」という要求があるのだ。この場合、「私」が社長だから生きたいとか、学生だから生きたくないということはない。つまり、一応は誰もが「生きたい」という要求を持っている(と考えられている)。それを出来る限り実現しましょうというのが人権としての生存権(誰もが等しく持っている、誰にも奪われたり制限されたりしないことを国が保証している、生きる権利)の正体ではないかと思う。(りゅこ倫・人権について考えてみよう)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin27.html
と述べて、誰もが「死にたくない、生きていたい」という気持ちを実現したものが人権だとしています。子供を捨てるような無責任な親に虐待されて殺される赤ちゃんも、「生きていたい」という気持ちはあるのですから、こうした子供をまずは保護するために、赤ちゃんポストは設置されたのですね。

 わたしたちは、ほとんど、「生きていたい」「死にたくない」という気持ちを持っていますが、その反面、日本は自殺大国とも言われています。自殺する理由はさまざまで、借金苦、失恋、病気、さらに三島由紀夫の自決に見られるように「理想の日本」という像を持っているのに、現実の日本は(三島由紀夫から見て)「私は日本の戦後の偽善にあきあきしていた。私は決して平和主義を偽善だと云わないが、日本の平和憲法が左右両方からの政治的口実に使われた結果、日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になった国はないと信じている」と語るなど、自己が持つ理想像と現実との間にあまりにも大きい違いがある時、人は死のうとします。人は、なぜ、あまりにも理想と現実が違っていたら、死を望むのでしょうか。

 神名女史は
私達はなぜ、ほぼ例外なく「生きたい」もしくは「死にたくない」と思うのだろう。私はこれについて、2人の哲学者の指摘をヒントにしたい。(中略)もうひとつは、ハイデガーの「実存」、「人間とはつねに自己の『かくありうる』(=存在可能)」を”了解”しつつ生きているような存在だ」(りゅこ倫・引き続き人権について考える)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin32.html
   

と述べて、人間が場合によっては、理想像としての「ありうる(在ろうとする)」が現実の「自己保存(在る)」よりも重要視されることだってあると指摘しました。人間だけが、「理想の自分とはこうだ」「理想の日本はかくあるべし」という理想像を持つことができます。                                       

 本当に自殺してしまったら、現実を理想に変えることはできません。割腹自殺はある種の「滅びの美学」でありますが、理想を現実のものにする地道な努力も、必要だったかも知れないですね。生きる権利が必要なのは、生きてさえいれば、理想を現実に変える機会があるからで、それを含めての「生きる」なのですね。
 神名女史は
「人間は自我が一気に崩れ去るような事態に対しては必死に抵抗するけれども、その一方で、適度に自我を編み替えながら生きて行こうともする。自我の編み替えがまったくなくても、つまり自分が「ありうる」のない人間だと、また不安を覚える生き物なのである。その意味でいうと、「死」とは自分のありとあらゆる「ありうる」(という存在可能性)の否定である。例えば、私が明日死ぬという事が判ったとする。そうすると、あれもやりたかった、これもやりたかったという、様々な実現できない「かくありうる」を思い浮かべては悔やむことになるかも知れない。(りゅこ倫・・引き続き人権について考える)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin32.html

と述べています。簡単に言えば、「死んで花実が咲くものか」ですね。

今は一粒の種であっても。「時間」という未来があれば、花実をつける可能性があるわけで、人間はこれに賭ける気持ちを捨て去ることはできないのですね。

 当たり前のことだ、とこれを読んで笑う方がいるかもしれません。ですが、人間の命とは、重いようで実は軽く、犯罪で殺される人、簡単に捨てられる赤ちゃん、交通事故や自殺で死ぬ人が新聞を賑わさない日はありません。
    

 わたしたちは生きることによって、どんな花実を咲かすことができましょうか。簡単に「俺が死んでも社会は変わらない」と思うのではなく、自分ができることを見つけて、「実行」して、絶望する人が一人でも減る社会であってほしいものです。 


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