

しかしその結末は、当時のアニメとしては衝撃的なもので、自らを正義と信じてきたトリトンが、ポセイドン族からすると「悪」であり、ポセイドン族は自分たちを守るためにトリトン族と戦ってきたものであり、戦争には正義は無い、ということを謳った内容になっていました。虐殺者となっていたのは、可愛い主人公のほうだったのです。
善悪とは相対的なものであり、その現象を観る人の立場によって、どちらが善でどちらが悪か、変わってきます。桃太郎に攻められた鬼にしてみたら、桃太郎こそ悪に見えたかもしれません。つまり、絶対的な善や悪など、存在しないということです。
神名女史は
同じ部族の人間を傷つけたり、彼等のものを盗むのは「悪」と呼ばれるだろう。しかし、敵対する部族と戦争になった場合、敵を殺したりその財物を略奪して自分の部族に富をもたらすことは、むしろ褒め称えられるべきこととされるだろう。
その後、敵対していた部族との共存の道が開ければ、自分が属する部族だけでなく、相手部族に属する人間を傷つけたり、彼等のものを盗むことも「悪」と呼ばれるだろう。
このことから、「悪」の基準となる価値観は一面では相対的だが、利害の一致する間柄では共有される価値観でもあることがわかる。つまり、共通の利益に反することや、誰もが不快に思うであろうことは「悪」だという評価が共有されることになる。(りゅこ倫・悪とは何か)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin78.html
と述べて、「悪」という概念が相対的なものだとしました。
では、正義とはどういうものでしょうか。
裁判所や法律事務所などに、正義の女神テーミス像(ユスティティアとも言います)が飾られています。一般的には、右手に剣を、左手に秤を持っていて、剣は法の厳しさを、天秤は法の公正さを、表わすといわれます。
この女神は、目隠しをしています。目隠しは、司法の場において、先入観や予断を持たないで裁くことを表わすといわれ、この女神像は、司法における理想を表現する人格的象徴なのですね。逆にいえば、人間は、外見や貧富などで簡単に判断の目が曇ってしまいやすいのでしょう。
ドイツの法学者、ルドルフ・フォン・イェーリンクは著書「権利のための闘争」の中で正義の女神について、「剣なき秤は法の無力、秤なき剣は単なる暴力」と言いました。女神の持つ剣は、法律の強制力・執行力を意味するのですね。ということは、正義には「強制力・執行力」が伴うことになります。
神名女史は、
「正義派」、「正義の味方」、「社会正義の実現」などの用法を見ると、「正義」には「実現のための手段」が伴う(または、伴うべきとされている)概念だということに気がつく。(りゅこ倫・正義とは何か)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin86.html
と述べていますが、正義を実現するための手段は、女神が持つ「剣」に象徴される「強制力・執行力」なのですね。
では、「正義」とは一体、何でしょうか。これについては、古来、多くの哲学者が論じています。どのような行為が正しい行為なのか、そもそも「正しさの基準」はあるのか、ということが議論の的となってきました。これは本当に、人それぞれ考えが違います。
アリストテレスは、正義を時間的空間や場所を超越して通用する「全体的正義」と公正を意味する「部分的正義」に分け、さらに、部分的正義は、それぞれの人間が地位や役割に応じて働いた結果、果たされた功績にしたがって配分される名誉や報酬だとしました。当時の社会は、人間に地位や立場の差があるのは当然とされていたからです。しかし、こんにちでは、人々は法の下では平等だという理念が通常となっています。
戦争を始めるとき、たいていは「正義のための聖戦」という形をとります。十字軍の遠征もアメリカが中東を爆撃するときもそうですね。正義という言葉くらい、多様でさまざまな場面で使われる言葉もありませんね。
神名女史は、
では、それぞれの場合において実現されるべき「正義の中身」は何か。これは「善」と呼ばれるものであり、あるいは「正当性」といってもよい。既に、「悪の本質直観」で見て来たように、「善」や「悪」は一面では相対的だが、利害の一致する間柄では共有される価値観である。だから、具体的に何が「善」か、何が「正義の中身」なのかということには、普遍性はない。(中略)
ただ、具体的な中身(何が善であるか)が違ってはいても、どちらの立場にもそれぞれの「善」があり、それを実現するというそれぞれの「正義」が存在する。「善」や「正義」という概念が存在することは普遍的である。そして「正義」の本質が「善」を実現しようとする点にあることも、また普遍的なのである。ただ、立場によって何が「善」か、何が「正義」かという中身が異なるに過ぎず、この「正義の中身」については「正義という概念そのもの」をいくら調べても、そこからは出てこない。なぜなら、これは「善」の本質として考えられるべき問題だからだ。(りゅこ倫・正義とは何か)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin86.html
と述べています。
トリトンが自分を「正義」だと思っても滅ぼされるポセイドン族の立場からしてみれば、トリトンのほうが悪になってしまうということは、「正義」という概念は空っぽであり、それぞれの立場をあてはめることによって、それぞれの「正義」が並んでいるということですね。「正義」とは信念ですから、個々人やそれぞれの社会によって正義は異なり、その正当性をめぐって争いがずっと続いてきたのですね。
では、道徳とはなんでしょうか。今、インターネットの世界では、相手先に大容量のメールを送らない、という不文律が形成されつつあります。こんなメールを送ったら相手に迷惑をかけることですが、これは、法律できちんと決まっているわけではありません。あくまでも不文律であり、「かならずこうすべき」という強制力はありません。また、「近親相姦」は、道徳上は許されないことですが、法的に明文化はされていません。
神名女史は道徳について、
道徳とは何か。まず思いつくのは、それが人間関係における一種のルールだという事である。そしてそれは人間の行ないの善悪の基準であり、「〜すべし」といった命令形、あるいは「〜すべからず」といった禁止形で表現される。それが掟や法律と異なるのは、通常は明文化される事もなく強制力も弱いという点にある。言い換えれば、それは個々人が内面化している原理である。(りゅこ倫・道徳とは何か)http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin79.html
と述べています。
電車の中で騒ぐな、という法律はありませんが、「人にめいわくをかけてはいけない」というのは、当たり前なことでこれを疑う人はいません。だから、電車の中で騒ぐ子供がいたら、注意する人もいるのですね。
しかし、「道徳」というと、あまり守りたくない、押し付けられたくないものだと感じる人もいます。道徳や秩序は、「自由」と相反するものでしょうか。
神名女史は
「秩序」という言葉に反発を感じる人は、「自由」を「秩序」を相反する概念だと思っていて、両者を比べると「自由」の方が大切ではないかと思ったりする。確かに、「秩序」は「自由」に何らかの制限を加えることなしには成立しないから、この二つの概念をはかりにかけて、二者の内のいずれを取るかと考えてしまいやすい。(中略)
しかし上述のように、「秩序」を「個人の生命・身体・財産の保護」という意味に考えた場合にはどうだろうか。「自由」の方が大切だから、そのためには身体を拘束されてもいい、というのは矛盾である。つまりこの場合には「秩序」と「自由」は相反する項目なのではなくて、前者が後者の前提になっている。前提たる「秩序」がなければ、「自由」は単なる理念に過ぎず、実現の条件を欠くことになる。「自由」は誰もが求めるものであるから、その実現条件となるような「秩序」もまた誰もが求めるはずである。これは逆にいえば、「秩序」は「自由」の実現の前提となる形で築かれていなくてはならない、ということでもある。(りゅこ倫・自由と秩序)
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin90.html
と述べて、「秩序」あっての「自由」だとしています。
道徳や秩序は、人の行動を規制するものではなく、むしろ、自由を守るために必要なものでもあるのですね。
ところで、皆さんは、「亡八」という言葉を知っていますか?死語となってしまいましたが、昔、男性のお相手をする遊女さんを集める遊郭があって、そこの主人のことを「亡八」と言いました。これは、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの徳を捨て去るような冷血な人間でないと、遊郭の主人は務まらない、という意味です。
最近はあまり使われませんが、この八つの徳目が昔は重要視されました。神名女史は、
「『仁義礼智忠信孝悌』という八つの徳目の内、『仁義礼智信』を『五常の徳』という」と述べました。
「忠孝悌」は、君臣、親子などを規定する道徳ですが、それ以外の5つは、自分と相手の関係の種類に限定されない道徳だからですね。これは、人としての守るべき道を表わしているものです。
道徳は、単に「電車で騒いではいけない」などの単純なものではなく、このような高次元のものも含まれています。
道徳には、法律のような強制力はありません。ですから、時には、
「法律には穴がある。それをかいくぐって違法とならないようにすれば、どんな金儲けもできる。お金儲けして何が悪い」という人もいますが、そのような人は、現代の「亡八」さんかもしれないですね。
道徳は、人間を縛るように見えますが、本当はそうではなく、それを捨てた亡八さんのほうが、自分の「金銭欲」の奴隷になっており、自分らしさを捨てているのかもしれません。