2008年1月9日

○社会という概念

わたしたちは、「今の社会は格差社会だ」というように、よく「社会」という言葉を使います。時には、「社会」と「自分」とを対峙させて、「自分は○○をしたいが、社会が認めてくれない」などの言い方をすることもありますね。「男女平等の社会にすべきだ」という言い回しもよく、耳にします。

では、「社会」という客観的な存在がどこかにあって、「自分」のしたいことを認めてくれなかったり、「自分」の行動を束縛したりするものなのでしょうか。

神名龍子女史は、

「社会」とは概念である。

として、直接見たり触ったりできないものだとして、

 

私達は様々な情報を受け取ることを介して、それぞれ各人の「社会像」を成立させているのであり、それゆえに様々な「世界像」が存在することになる。(りゅこ倫・社会とは何か)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin110.html

 

と述べています。つまり、「社会」というものが客観的に存在しているのではなく、それはあくまでも「概念」なのですね。

わたしたちは、さまざまな情報を受け取って、それぞれ各人の「社会像」、「世界像」を自分の脳内で構成しているのです。つまり、わたしたちが「社会」と呼んでいるものは、個々人がそれぞれ脳内に構成している「世界像」なのです。

インターネットが紹介するニュースを読んだ人たちが、そのニュースをテーマにしてブログを書くことが流行しています。同じニュースを見聞きしているのに、受け手の感想は人それぞれです。それは、人それぞれ、経験や知識、願望が違うために、同じニュースを聞いても感想や解釈の仕方が違っているのです。

たとえば、盲目の歌手が才能を認められ、CDデビューするというニュースがあったとします。その盲目の歌手を以前から知っていて応援している人、頑張ることが素晴らしいと思っている人は「頑張ってほしい」と応援のメッセージを日記に書きますが、「身体障害者だからって甘やかすな」という中傷するような日記を、顔の見えないブログに書く人も中にはいます。

同じ記事を読んでも、人によってこれほど感想が違うのです。人それぞれ、脳内で構成される「世界像」が違うことがわかりますね。

 

 わたしたちの脳内で構成され、一人一人違っているところの「世界像」には、3種類あります。

 一番目は、「具体的経験の世界」で、わたしたちが自分で直接に見聞きし、体験する日常の世界です。

 二番目は、「伝聞・情報の世界」で、自分は直接体験していないけども、人から聞いたり本を読んだりしてその実在を信じることができる世界です。インターネットで知るニュースもそれに当たります。

 三番目は、知覚が不可能な「フィクションの世界」です。経験が不可能なので、推測するしかない世界のことで、旧約聖書の「エデンの園」とか「天国」や「地獄」などがそれに当たります。

 わたしたちは、個々人の経験や知識によって脳内で、この3種類の世界像を組み合わせて、それぞれの世界像としており、それを「社会」と呼んでいるのです。

 「社会」とは、直接触れるものではなく、わたしたち一人一人が、それぞれの経験や性質、知識によって、脳内で再構成された「経験」であったり「伝聞」であったり、「フィクション」だったりするのです。

 

 神名女史は

「社会」が概念であるということは、直ちに「しょせん『社会』というのは幻想なのであって、実は存在しないのだ」というということを意味するものではない。実際に私達は通常「社会」の存在を疑わず、いかにも「社会」が客観的実在であるかのように信じているし、「社会」の実在性には疑い難いリアリティが伴っている。(りゅこ倫・社会とは何か)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin110.html

 

と述べます。「社会」が概念だというのは、今説明されましたが、それでも、わたしたちは、自分と対峙する「社会」を客観的実在と感じるのはなぜなのでしょうか。

 それは、自分が直接見聞きできない、行ったことも無い知らない場所にもさまざまな人が存在していて、それぞれに活動しているのだ、ということをわたしたちは疑っていないからなのですね。

 今、わたしはパソコンに向かってこの文章を書いており、頭上には照明器具があり、手元には飲みかけの紅茶のカップが置かれています。これらの品物は、誰かが工場で作ったものであり、「社会の産物」であります。社会に生きる「誰か」がカップや照明器具を作ってくれたからこれらの品物が目の前にあるわけで、いきなりこれらが沸いてきたわけではありません。

コーヒーカップを作った人が誰だか知らなくても、わたしはその人の存在を疑うことはありません。紅茶のカップを作った人、流通に携わった人、売ってくれた人、さまざまな人がいて、わたしの手元に紅茶のカップがあるのです。

最近は消えた習慣かもしれませんが、昔は、買い物では売った人だけではなく買った人も、売り子さんに「有難う」と言ったものです。それは、「売ってくれて有難う」という意味ですね。

「こっちはお金を出して買う客だから、有難うと言う必要はない」と思う人もいるかもしれませんが、流通する品物は、多くの人が手をかけて今、自分の手元に来たのですから、それらをもたらしてくれた人を代表して、売り子さんに「有難う」を言う習慣があったのです。また、昔は、食事をするときに、心の中で農家の人に「有難う」を言う習慣があったそうです。これも同じですね。

そんなわけで、「社会」とは客観的に実在するものだ、という感覚が、わたしたちからは拭い去ることができないのです。

では、社会の「意味本質」とはいったい何なのでしょうか。

神名女史は、

 

自分の直接知覚の範囲外にもいろいろな人々がいて活動している、ということが信じられても、それだけでは「社会」という概念にはならない。「社会」という概念の意味は、単に人がたくさんいるというだけでは不充分だからである。したがって「社会」という概念が成立するためには、そこにさらに様々な意味が加わり、その意味にも妥当性がなくてはならない。

「社会」の意味のひとつが、各人の直接知覚の範囲を、つまり対面関係を越え出た関係であることは、ここまで述べてきた通りである。したがって「社会」とは、直接知覚の対象たる「具体的経験の世界」ではなく、それを越え出て思い描かれるような「伝聞・情報の世界」である。他に何が考えられるか。

「社会」が「伝聞・情報の世界」である以上、それを思い描くための情報の存在が不可欠である。この場合の「情報」というのは、どこか遠くから運ばれた来た「モノ」であってもよい。なぜなら目の前に置かれた、その「モノ」の存在が、遠隔地の人の存在やその活動を私達に想起させるからである。このように「情報」の意味を広く取る限りにおいて「流通」もメディアの一種と考えることができる。また、その遠隔地から訪れた人がいれば、その遠隔地(アメリカでもエチオピアでも、どこでもよいのだが)が存在することが、私達に妥当する。あるいは妥当が強化される。

つまり、人の往来や、モノ、情報の流通が可能な範囲が、私達が「社会」という概念を当てはめる限界である。(りゅこ倫・社会とは何か)

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin110.html

 

と述べて、社会というものを「伝聞・情報の世界」だと定義しました。人の往来や、モノ、情報の流通が可能な範囲が、わたしたちの「社会」という概念が及ぶ範囲だということは、その範囲内で、わたしたちが何らかの関係を持てる可能性があるということです。

 では、この「社会の範囲」って、狭いものなのでしょうか。それとも広いものでしょうか。広く考えたら、「地球全体」ということで、とても広いものになってしまいますね。「グローバル化社会」とは、「広い社会」の極致なのでしょうか。逆に、「狭い村社会」というものもありますね。

 神名女史は

この「関係」とは一義的なものではなく、したがって私達は「関係」のありように応じて大小様々な「社会」を考えることが出来る

と述べています。

 社会を広いものだと感じるのも、狭い社会を想定するのも、わたしたちの行動次第であり、関係の持ち方次第、ということですね。

 

 わたしたちが、「自分は○○をしたいが、社会が認めてくれない」などの不満を持つとき、わたしたちの内部には、してみたいと望むあれこれが「善」または「悪ではない」という前提があります。社会とは、「ルール」の組み合わせで構成されるものであり、ルールなき社会は秩序を持たない集団、群れになってしまいます。

 では、わたしたちが内面の願望をかなえるために、社会に働きかけるとしたら、どういう形になるでしょうか。

 神名女史は

「社会」を変えることで問題を解決しようというのは、しばしば「ルール」の改変という形を取る。言い換えれば、「社会」概念にはルール改変の可能性が開かれているという認識が伴っている、ということでもある。

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin110.html

と言っています。

 わたしたちもまた、社会の一員であります。社会とは、自分を離れて存在するのではなく、自分もまたその中の構成員でありますので、「社会が悪いから自分は○○が出来ない」と思うのではなく、自分に確固たる信念があるのなら、社会のルールを、多くの人により良い方向になるように、変える可能性も秘めているということです。

 自分だけが都合よい方向にルールを変えるのではなく、そうすることによってより多くの人が救われることを目指して、社会のルールを変えることも必要です。

 社会を構成するのは、自分自身であり、周囲の人たちであり、それ以外の顔も見えない大勢の人たちであります。自分の可能性が開くためにルールを改変することで、他者もまた同じように可能性を開くことができるように考えなくてはならないでしょう。

 社会とは、そのように変わっていくものだと考えます。


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