男女共同参画社会基本法の成立以降、フェミニストが行政や教育などの分野に入り込んで、「性差否定」や「過激な性教育」を人々に押し付け始めたということが問題視されています。

 保健・養護教諭たちで組織され、過激な性教育を実践している「‘人間と性‘教育研究協議会(性教協)」http://www.seikyokyo.org/index.html
の会員が、性に関する子供向けの副読本を多数制作しており、そのうちの小学生向けの「「ひとりで,ふたりで,みんなと」性ってなんだろう(小学生用副読本)の中には、
「卵管で待っている卵子へ精子を安全に確実に届けてあげるために,男の人は,ペニスをバギナに入れて射精するのです。これを性交といいます」
「女の子にも「ペニス」があるのです。びっくりしましたか。男の子のペニスよりずっと小さい小さいペニスです。「どこにあるの。見えないじやないの。」
 そうです。とても小さいので見えません。これから探してみましょう。おしっこの出るところは分かりますね。尿道ロといいますが,そのすぐそばにあります。静かにさわってみましょう。ちょっとポツンとした感じのところがあって少し出ているでしょう。そこがクリトリスというところです。このクリトリスが長くなって,男の子のペニスになったのです。」

などの記述が見えます。

 性教協から出ている「季刊セクシュアリティ」では、「低学年だからこそ伝えたい性交と出産」と題して、低学年のうちから性器の名称を含めた赤裸々な性教育を施している模様が報告されています。
http://www.seikyokyo.org/shoseki/sexuality/sexuality_15.html
 
 低学年の子供たちに、性器の名称を大声で呼ばせるなどの授業をする一方で、性教協の情報誌には、広島県の小学校で、「3人の教師がつなぐ性と生のリレー授業」として、
「『授業で、「何才から性交していいと思う?」って聞かれて、私は「何才でもいい。頭にスイッチがポンと入れば、年齢は関係なくいいと思う。それにみんなの自由じゃないかな」と思いました。」

と子供たちが答えたなどの事例が報告されています。

 さらに、「季刊セクシュアリティ」では、高校生にピルを勧める記事やピルについて記述した記事も見受けられます。
 経口避妊薬であるピルは、妊娠を防ぐことはできても性病を防ぐことはできません。また、頭痛や吐き気などの副作用も報告されています。また、うっかり飲み忘れると、妊娠し、望まぬ中絶を行う危険性もあります。
 身体も整わない高校生に対して、このようなものを勧めるのは、かえって将来のためにならないでしょう。
 その他、こうした教育では、性器付きの人形、股を開いたところの性器正面図、性器模型などが教材として、副教材としてさまざまな生々しい性教育読本が使われたり、「性は恥ずかしいものではない」として、出産ビデオや第二次性徴について、子供たちに詳しく話すことがあるなど、枚挙に暇も無いほどの報告が聞かれます。

 しかし、男女共学で異性の子供もいる場面でこのような生々しい話をするのは如何なものでしょうか。出産ビデオは特に、小さい女児に見せるとショックが大きいことも報告されています。

 性教協では、このように「何歳で性交しても自由なんだ」と未成年に自己決定を勧めておきながら、一方で、彼らが出す「ジェンダーフリー・性教育バッシング(ここが知りたい50のQ&A)」では、
「およそ人生について、自分で道筋を決める場合は必ず自己責任が伴います。同じことが「性的自己決定」にも言えます。」
として、結果は自己責任だとします。
 精神的に未熟な子供たちに、性の自己決定権を勧めておきながら、結果は自己責任とするのは、あまりにも無責任ではないでしょうか。
 この本の中では、
「性的自己決定」という言葉があります。これについて、‘自分がいいと思えば勝手にセックスしてもいい‘ということだという人がいますが、そういうことですか?」という質問に対して、

「違います。むしろ性的自己決定能力が高いレベルで身についている人は、自分勝手なセックスなどしなくなるものです」

と答えている。しかし、一方で子供たちに性の知識を教えるという名目で、「年齢に関係なく自由」としておきながら、一方で、それを否定するのは矛盾しています。

 未熟な子供たちにも「性の自己決定権」を認めるための過激な性教育は、「人権」の名の下に行われています。

 さらに、性教育はジェンダーフリー思想を徹底させるためにも行われていると指摘もされます。
 たとえば、女の子にも男児のペニスに相当するクリトリスがある、として、男女には違いがないということを教え込みます。さらに、性的少数でもある半陰陽の人や同性愛者カップル、性同一性障害の人の存在も教え、さらに、「家庭も多様なものである」として、男女には性差がないことを子供たちに教えるのです。 

 本来的には、同性愛者や性同一性障害の人たちを差別から守るための教育であるはずですが、過激な性教育と関連付けられた結果、かえってこのような人たちへの偏見が増える危険性があります。

 もちろん、同性愛者さんなどの性的少数派への差別はあってはなりませんが、子供たちに従来の家庭の大事さを教えないことは間違っております。


 これは、「個人」を重視しすぎた偏重的な教育でもあります。個人というものは、社会に支えられて存在するものであり、社会があるからこそ、「個人」という存在を考えることができます。社会性と個人性は、本来は対立するものではないのです。また、男女の性は、いずれは家庭という形で社会の最小単位を形成するものであります。
 極端な「個人の尊重」と子供の性的自己決定権だけを教え込み、社会性を伸ばすための道徳や品性を教えてこなかったことで、若年層における性病や女子高生の売春などの弊害が出てきております。

 性教育そのものは適切な時期に適切な教材で子供たちに教えることが必要ですが、性欲も芽生えていない幼い子供に過激な性教育を施すのは、逆に児童虐待に当たるのではないでしょうか。

 人間の生活は、性的な部分と、そうではない部分があり、性的な部分は慎み深く隠した個人的な世界で行うものであり、性的ではない部分が社会的な場所で行うものとします。これらをきちんと区別することが、社会の秩 序を保つことになります。

 子供たちが性器の名前を連呼し、それが恥ずかしくないことだ、とするのは、社会にとって秩序を乱すことにもつながるのです。

 神名龍子女史は、

1・かつては、子供は天使でもなかったが、性的欲望の対象でもなかったから、子供の身体をタブー視する見方そのものが希薄であり、子供への性的いたずらを犯す人間は「変質者」とされた

2・ 幼女の身体には性的タブーを持っていた日本でも、昔は遊郭で働く10代の少女は存在していた。

3・だが昔から学生だけは、未成熟の象徴とされ、性的なタブーがありました。

4・戦後、栄養が行き届いて肉体的な成熟度が進んだ結果、ハイティーンの男女は、「身体的存在」としては大人であり、「社会的存在」としては子供であるという、中途半端な状態に置かれる続けることになるが、しばらくは学生は性的にタブー視する社会的コンセンサスが勝っていた。

5・学生運動が社会的コンセンサスを突き崩し、さらに、かぐや姫というグループが歌う「神田川」(男女の同棲を歌った)がその象徴と思われる。

6・さらに農村の都市化も進む

7・その結果、性行為を持つ高校生や、女子高生の援助交際やブルセラなどが報じられ、高校生に対して性的タブー視する視線は薄れた。

8・エロティシズムが「禁忌の侵犯」であるゆえ、人々は次第に援助交際をする女子高生より、もっと若くて未熟な子供たちに性欲を感じる、いわゆる「ロリコン」なるものが現われ、性の禁忌の破綻傾向が、ますます低年齢化する。

と分析しました。この時、最近になって子供の身体が性的なタブーになったのではなく、それがタブーだということが再発見された、と説明しました。その上で、

 昔は、そもそも子供(女の子)の身体に性的魅力を見出そうとする「目」がなかったから、子供の体が性的禁忌であるということを(ごく一握りの変質者を除けば)誰も意識しなかった。逆にいえば、宮崎勤のように殺害に至らない場合でも、子供に性的いたずらをすれば、それだけで「変質者」扱いされ、「異常な事件」とみなされた。これは子供の身体に強い禁忌があったことの証拠である。つまり子供の身体は、最近になって禁忌(タブー)化されたのではなくて、それが禁忌であることが「発見」されたのである

 つまり最初に指摘にあったような、一見すると逆ベクトルを向いているかのような現象は、エロティシズムの本質が「禁忌の侵犯」であることに由来しているのである

 誤解のないように書いておくが、このことは、女児が男性の性的暴力の対象として狙われ始めてきたから、そのような男性支配的から女児を守るために性教育が必要になってきた、ということを意味しない。むしろ、そのような風潮が女児の禁忌性に拍車をかけるのであって、低年齢層の性的倫理の破綻と性教育とは、共犯関係を形成しているということなのだ。

 さらに誤解を避けるために付け加えておくと、私は性教育そのものがまったく無用だといっているわけではない。問題は、その中身と実施方法である。子供の発達段階を考慮せず、一部の大人の政治的・倫理主義的実践としての性教育が行なわれる限り、この共犯関係は解消することはないだろう。

 「お子様中心主義」の教育者と、いわゆる「ロリコン」との間には、自分たちのロマンティシズムを子供に投影しているという共通点がある。この共通点が、両者の共犯関係を媒介しているといってよい。どちらも、子供は穢れない存在である、子供は天使だ、という共通の認識に立脚しているからだ。

 (中略) 私が言いたいのは、子供が「誰にとって」天使であるかという視点の存在を考えずに、そのことを普遍的事実であるかのように考えてはならないということである。(中略)

 しかし、自分が子供だった時期(当たり前だが、誰にもそんな時期があったはずである)を思い出してみよう。子供というのは、悪い事を知らず、悪いことを考えず、「善」の塊であるような存在だったであろうか。私の経験では、子供は「いじめ」や「意地悪」もするし、自己中心的だから喧嘩も絶えない、また残酷さをも持ち合わせているような存在だったと思っている。幼稚園・保育園や小学校に通っていた時期を思い出してみれば、誰にも思い当たることがあるはずなのだ。「私は子供の頃、悪い事を知らず、考えず、善の化身のような存在であった」と臆面もなく言える人がいたら、名乗り出て欲しいものである(笑)。

 ここまで考えれば、「お子様中心主義」の教育者と、「ロリコン」との共犯関係が、いかに誤った子供観を前提として共有しているか、よくわかるはずである。この誤った子供観は、子供の真実の姿ではなく、あくまでも「お子様中心主義」の教育者や「ロリコン」が、自分自身のロマンティシズムを子供たちに投影し、子供を過剰に「聖化」することで生じる。そこに性愛対象の低年齢化や、倒錯的な性教育といった現象の原因があるのだ。

 個人的な趣味として幼児や児童を愛好しても、私は、その価値観自体の是非を問おうとは思わないし、問うべき問題でもなかろうと思う。しかし、実際に幼児や児童に手を出せば、これは言うまでもなく犯罪である。それと同じように、児童に性器の名前を大声でいわせるような、現在の非常識な性教育も、それ自体が「性的虐待」として断罪されるべきである http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign88.html

と述べました。 

 神名龍子女史は、近代になってから、子供は天使のように、穢れを知らぬ絶対的に純真なものだという見方が現われたと指摘し、天使のような子供たちだからこそ、子供たちの人権や性的自己決定能力を高めるという名目で、過度な性教育を施すことと、子供に性欲を持つ「ロリコン」とは、自分自身のロマンティシズムを子供たちに投影して子供を美化する点では同根である、と分析しました。

 それゆえ、神名女史は、「低年齢層の性的倫理の破綻と性教育とは、共犯関係を形成している」と警告を発しております。

 つまり、過度の性教育を施す教師たちは、ありのままの子供たちを見ようとはせず、過度に「天使のような存在」だとして、「性の自己決定権」「人権」などの政治的スローガンやロマンティシズムを子供たちに押し付けている存在でもあるのです。

 もちろん、現実問題として、子供たちが触れるインターネットや携帯電話では有害サイトとの接続を制限したり、危険が迫った際の対処方法などを、年齢に応じて教えることも大事です。


 性の知識は、その人の発達過程に即した時期に教えることは必要ですが、性教育は過度になればなるほど、結局は「性交の勧め」になってしまい、子供たちに性の自己決定を過度に教え込むことは結果的には、援助交際の勧めにもつながってしまいます。
 「人権」という名目で、子供に性的自己決定権があるとすることは、子供に対して教師が倒錯した欲望を持っても正当化されることにつながるものでもあるのです。

 「?啄の機」という言葉があります。「そったく」とは、雛がかえろうとするとき、雛が内からつつくのを「?」、母鳥が外からつつくのを「啄」ということで、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことを意味します。
 雛が孵ろうとして内側から殻をつつくまでには、時間がかかります。性欲もないうちの早期の性教育は、まだかえろうとしない雛が入っている卵を外側からつつくことに等しいものです。

 人間の生活は「性」だけが突出して独立的に存在するものではありません。性器の名称などを小さい子供に教えるまえに、家庭を大事にすることや、より良い人間関係を築くための道徳や、人としてのあり方をまずは教えるべきです。正しい言葉遣いや礼儀作法、品性や節度ある態度の必要さを教えるべきです。
 「いつでもやりたい時にセックスができる」ことではなく、責任が持てる年齢になるまでは自制心を身につけることを教えるなのべきです。

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