神名龍子女史が、「フェミナチを監視する掲示板」に投稿した記事を再構成しております。

長い記事は個別の単元にしています。

 

○セクハラについて

 セクハラとは、「セクシャルハラスメント」の略であり、「性的嫌がらせ」という意味であり、日本では1980年代から使われるようになりました。

 男性が女性を褒めるつもりで、「色っぽいね」「スタイルが良いね」と言ったことや、悪意はなくても「いつ結婚するの」「子供はまだ生まないの?」などの言葉も、言われた女性が嫌な気持ちになれば、「性的嫌がらせ」となります。

 しかし、これに対して、男性が

「今の社会は女性天国だ。女性がセクハラといえば、ちょっとした冗談もセクハラになってしまう」と書いているのをネットでもしばしば見かけます。

 今の社会は、女性が甘やかされて男性が優遇される社会になりつつあるのでしょうか。

 

 神名女史は、

 

 セクハラに限らず、こういう問題は以前から存在します。

たとえばフェミニストが「女性がいかに辛い思いをしているか」と並べ立てると、それに対抗して「男性だってこんなに辛い思いをしている」ということを並べる人が出てきます。

個人的には、そう言いたくなる気持ちはわかりますが、しかしこの方法はあまり建設的ではないように思います。

 男女というのは、どちらか一方が損をすれば、その分だけもう一方が得をするというようなゼロ和ゲーム「ゼロサムゲーム」ではありません。そういう場面もないではありませんが、それは男女の間にごく一面的に見られる現象だと思います。

 

と述べて、「男性が冷遇されている」「いや、女性のほうが冷遇されている」と不幸自慢する愚かさを指摘しております。

 女性は、男性の性的な冗談を真面目に受け止めて傷つくことがありますが、男性は、性的な冗談で傷つくことはあまり無いようです。

 しかし、男性は、性的な冗談を言われても傷つきませんが、能力や地位などでプライドを傷つけられたら、気持ちが落ち込む人が多いようです。

 男性と女性とでは、傷つく場面が違うのですね。だから、男性=加害者、女性=被害者という図式だけがいつも成り立っているわけではありません。

 神名女史は、これについて、

 

私は、男女の「性」には一種の非対称性があると思っています。例えば、男性の性欲と女性の性欲では、同じ「性欲」という言葉でもその内実が違っています。

それと同じように、「男性から女性へのセクハラ」と「女性から男性へのセクハラ」も内実が違うのですね。

ですから、異質な両者を件数で比較することには意味がありません。男女の間でセクハラの数を競い合うようになると、これは糾弾合戦になってしまいます。しかし、そのような状況こそフェミニズムの思う壷なのです。

 

 重要なことは、「男女がゼロサムゲームのような対立関係にある」とか、「男女には非対称性がなく基本的に同質なものである」という考え方、それ自体がフェミニズムの前提になっているということです。

ですから大切なことは、フェミニストが仕掛けてくるこれらのゲームに乗せられることではなく、むしろこのようなゲームを前提から突き崩して行くことなのだと思います。

 

 この「ゼロサムゲームの思考」、つまり「男一般」と「女一般」とが対立関係にあるという考え方は、言説においてのみ成立する虚構であり、現実的なものではありません。

この考え方に縛られていたら、「男女がそれぞれの特性を活かして協力し合う道筋」が見えてこないのです。

大切なことは、私たちが一人の男や女として(あるいは夫や妻、父や母、子供)として関係を取り結ぶ、その時に求める幸福と意志の疎通の条件を考えることでしょう。

 

と述べています。

「これが男性から女性へのセクハラ」「男性を圧迫するのが女性の横柄さ」とそれぞれ並べ立て、男女が対立することは、フェミニストたちが仕掛けてくる戦略に乗ることであり、社会に男女の不和を満たすことになるのです。

 

 しかし、現実には、セクハラで悩む女性がいますし、そのような事態に対してのホットラインなどを用意する会社も存在します。   

フェミニズムに対抗するためだけではなく、現実のセクハラ問題に対処するための下準備として、男女の本質的な違いや、そこに由来する非対象性を取り出したり、「関係としての男と女」(もしどちらか一方が存在しないとしたら、「男」や「女」という概念は意味をなさない)を考える必要があります。

でないと、「あれもセクハラ、これもセクハラ」と拡大解釈されたら、社会が潤滑に運営されないからです。

 

神名女史は、

 

 まずは「セクハラとは何か」ということをきちんと考えて、フェミニストたちの「あれもセクハラ、これもセクハラ」という主張に対して、きちんと反論できる構えを作るということだと思います。

 とりあえず、「セクハラ」の本質のひとつは「不当に性的な快楽を得ること」だと思います。恋人でもないのに異性の体に勝手に触るとか、それによって相手に性的な羞恥心や嫌悪感を生じせしめるとか、こういうのは誰でも不当だと考えますし、これは「セクハラ」という概念を唱えるまでもなく「犯罪」として対処が可能なものです。

 

 それから「犯罪」に至らないまでも、性的な手段で精神的な圧迫を与える、いわゆる「嫌がらせ」があります。しかし、こういう「嫌がらせ」は、「性的な手段」によらなくても、あるいは異性間でなく同性間であっても、問題の重さに違いはありません。

たとえば女性だけのグループの中で「みんなで露骨に無視する」などの「嫌がらせ」をすることも、やはり不当なわけです。そして、これを問題として扱うことに妥当性があるのは「継続性」という条件が必要だと思います。 

逆にいえば、たまたま一回だけ「ムカツク」ことを言われたからといって、それを公に騒ぎ立てるとしたら、人格が未発達だといわれても仕方がないでしょう。

そういうのは、当事者間の個人的な問題として処理できる能力を身につけることが必要なのであって、そうでなければ「男」であれ「女」であれ「一人前」とはいえません。つまりこれは「自助努力」の問題です。

 

と述べています。

 男性が女性の身体に不当に触ることはセクハラではなく犯罪であり、警察に届けるべき問題になります。セクハラとは、男性が女性に性的な嫌がらせをすることとされますが、性的なことが問題なのではなく、同性間であっても、人に嫌がらせをすることはそもそも間違っているのです。

 しかし、「男性=加害者、女性=被害者」の性的な嫌がらせをセクハラと見なすことで、、同性間の嫌がらせ行為や、性的な要素を含まない嫌がらせ行為は見落とされるのではないでしょうか。 

 

 神名女史は、

 

 しかしその「嫌がらせ行為」が度重なったり、集団的なものである場合には、これは個人の力では解決が難しくなります。

そういう時には、他人の手を借りたり、あるいは公的な機関の手を借りたりすることの妥当性が生じるわけです。

そして、このような執拗な「嫌がらせ」の中で、「性的な手段」によるものだけを限定的に問題視する事には、何の必然性もありません。また「男性から女性に対するもの」であれ「女性から男性に対するもの」であれ、異性間の問題だけに注目する必然性もないわけです。

 こう考えると「セクハラ」という概念は、実は無用なものだということがわかります。もちろん「セクハラ」といわれるものがすべて「問題ではない」というのではありません。  

 

そうではなくて、「セクハラ」という概念が提唱されても、問題が起こった場合の対処の仕方について目新しいものは何もない、ということです。犯罪に該当するものは犯罪として対処する。また「嫌がらせ」については、それが「性的な手段」によるものであろうとなかろうと、基本的には自助努力で解決する。  

それが度重なる場合など、一定の条件を満たす場合には、他人の手を借りて解決することの妥当性が生じる。これが社会のルールです。

と述べております。

 セクハラという言葉があるから、何かが規制されるわけではありません。セクハラという言葉があってもなくても、してはならないことはしてはならないのです。

 また、「男性=加害者、女性=被害者」の図式に囚われていると、男女の性の違いに気づくこともできず、男女がより良い関係を結べないことにもなります。

 個々人が性の違いを生かして、楽しく満たされた人生でありたいものです。


  • ○女性解放としての「良妻賢母」「専業主婦」
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