メンズリブの歪んだ男性観(2)

 メンズリブでは、「男性は暴力的な存在として女性に対して加害者であるが、同時に男性は男らしさを押し付けられた被害者でもある」として、「男らしさを捨てて、自分らしさを追求しよう」と説きます。

しかし、これだけではなく、あえて女装することで男性性を脱却し、男性もまた女性のように美を追求する権利がある、とする「トランス系メンズリブ」という思想もあります。

渡辺恒夫氏の「脱男性の時代」という本では、

「男性優位社会の崩壊にともない、女性コンプレックスを抑圧することに失敗し、男性性がぐらつき、女性に対して恐怖を抱いたり(同性愛)、羨望して女性を装ったり(異性装嗜好)する男性が激増している」

として、女装クラブなどを取材して異性装者の肉声を記録しています。

 また、2003年、大阪府高槻市のメンズセンターで行われる「男のフェスティバル」では、「『男らしく』から『自分らしく』生きようという」というコンセプトの元に、男性に化粧を施したりスカートをはかせたりして、「性役割固定社会から脱却して個々人が自由に生きる社会を作る」運動を進めたということです。

 この運動のパンフレットを作るに当たって、高槻市からの税金も投入されたということです。


 こういったイベントは毎年行われるようですが、スカートをはいた男性の中には、女性のように女装した人もあれば、男性の素顔のままで民族衣装のようなメンズスカートをはく人もいたということです。

 こういった企画は、「ジェンダーフリー」の掛け声の下に、男女共同参画社会法案の成立を背景に推進されたものなので、税金も投入されるのです。

 メンズリブ活動をする人の一部には、性同一性障害者などのトランスジェンダーや、同性愛者などのセクシャルマイノリティの方がいます。

 神名女史も、こうした人たちを

 女装者やトランスジェンダーなどにも、「ジェンダーフリー」に賛同し、積極的に協力する者たちがいる。

 こういうカテゴリーに属する人たちは何らかの仕方で、身体の性別とは逆の性別を生きようとしている(あるいは、すでにそのように生きている)。

 このような生き方を抑圧するのは、「男は男らしく・女は女らしく」という規範である。もちろん「ジェンダーフリー」はこのような規範を否定する。
 だから、つい「ジェンダーフリー」に飛びついてしまいやすい。しかし「女装だからスカートをはく」、あるいは性同一性障害のように「身体が男であっても自分を女だと認識しているからスカートをはく」というのは、よく考えてみれば「女は女らしく」という規範を実行しているということだ。
 そもそも、性別なんか関係ない、性別にとらわれないというのなら、「女装したい」と思ったり、性同一性障害になったりするはずがない。女装者も性同一性障害も、性別という概念なしにはあり得ない存在なのである。http://homepage1.nifty.com/1010/jinna.htm

と指摘します。

 女装する人たちは、

「女性がスカートだけではなくズボンもはけるようになって自由になったように、男性もまた、服装選択の自由を手に入れ、女装できる権利を手に入れることで解放される」として、メンズリブに共感しますが、それは、男性と女性の服装や文化が違っているという前提のもとに、トランスジェンダーの方は男性から女性の服を着て満足できるのであり、男性と女性の衣服がまったく同じになったら、女装することに意味はなくなるのです。


 では、普通の男性は、スカートをはく自由を持てば精神的に解放されるのでしょうか。

 神名女史は、これもまたポストモダン思想がもたらすものだとして、 

現在のメンズリブが推奨する「女装」が、ポストモダン思想に由来しているといえる証拠があります。大阪で行われたメンズリブでのイベントで、女装した男性の集合写真が紹介されていました。
 あの写真で「彼ら」がどのような衣装を身に着けていたかというと、普通の洋服ではなく和服でもない、民族衣装のような衣服を着ているのです。これは、彼らが「性別」だけではなく、特定の文化からの脱却も志向していることを意味しています。アメリカで六〇年代、日本では七〇年代に流行したヒッピーと同じです。
 日本では、ファッションに注目が集まったのでわかりにくいのですが、「ヒッピー文化」とは、ポストモダン思想に由来するものなのです。ポストモダンには「反真理主義」の他にも様々な「反何々主義」がありますが、その中の一つに「反ヨーロッパ中心主義」があります。
 だから、ヒッピーは「洋服」を着ない。日本では洋服も和服も着ないということになり、民族衣装のような衣服を着ることになります。ます。いわばあの写真の男性たちは、時代遅れの「性のヒッピー」なのです。
 メンズリブの提唱者の一人に、渡辺恒夫という心理学者がいます。スカートを履いたり家事をしたりすることで男性が解放されるという、おかしな主張をしていた人です。
 しかしそれによって解放されるのはあくまでも女装者や トランスジェンダーであって、男性一般ではありません。また、家事というのは生活の必要上するものであって、解放のためにするものではありませんね。

 このような提案は、実際には大部分に男性にとって、男性としてのアイデンティティを相対化するだけですから、むしろ精神的には不安定になるだろうと思います。 
 性同一性障害者などのトランスジェンダーが、やむをえず自らの性質を引き受けて、「女装」に精神の安定を求めるのに対して、メンズリブの人たちの女装はあくまでも自己選択的な「思想的態度」なのです。

トランスジェンダーの女装と、メンズリブの人のスカートは、「別物」です。正確にいえば、あれは「女装」ではなく、「脱男性装」なのです。
 普通の男性が女装をしたところで「楽」になれるはずがありません。トランスジェンダーにとっては、それが「本来の自分に戻る」という意味があるから自我の安定に役立つのであって、そうではない普通の男性には同様の効果が期待できる道理がないからです。
 この場合の「自我の安定」は「アイデンティティの安定」と言い換えてもよいのですが、メンズリブの背景にポストモダン思想が存在する以上、いかなるアイデンティティも拒否せざるを得ないからです。なぜなら前述の通り、ポストモダン思想は人間がある特定の形に落ち着くことを否定するからです。 

として、普通の男性がスカートをはいても解放されないことを述べています。

 メンズリブでは、男性が男らしさを押し付けられた被害者であるとしていますが、これもまた、フェミニズムと同じように、男性と女性の対立という図式で説明したものです。

 男性と女性はそもそも対立しあうものではなく、補い合い協調していくものです。男性と女性がお互いに対立し、どっちが得か損か、などを論じているのでは、男性はスカートをはこうが女装しようが、精神的な解放などされないでしょうか。

 神名女史は、

メンズリブの問題点は、男性にとっての問題を性的なイメージ(男らしさとその否定)に局限して扱う、という点にあります。
 男や女の問題は、労働や性行動、夫婦の在り方などの「関係を生きる」ことを通して現れてくるのに、メンズリブではそれが抜け落ちているのです。

これは、伊藤公雄よりも以前に、渡辺恒夫という心理学者が同じ失敗をして行き詰まった前例があります。
 男女の対立の側面だけを取り上げて非和解的な関係を論じたり、相互越境の可能性を探ったところで、それは「男女のよりよい関係の在り方」の模索とは何の関係もない作業です。
 したがって伊藤公雄が提唱するところの現在のメンズリブも、渡辺の失敗例と同じ末路をたどるでしょう。
 フェミニストは「男らしさ・女らしさ」というステレオタイプを否定しますが、それに代わる「自分らしさ」を作ることができず、結局は、女性には自分たちが考える「男らしさ」を、男性には「女らしさ」を押しつけるのです。「性の相互越境」とは、「自分らしさ」を作ることができないフェミニストたちが、単に「男らしさ」「女らしさ」を逆転させているだけなのです。それでは何も解決できません。
 従来の「男らしさ」「女らしさ」を本当に否定しようと思ったら、多くの人々にとってそれ以上に魅力の感じられる「らしさ」を創造しなければならないはずです。
 しかし、そういう提案ができなくて、フェミニズムでもメンズリブでも「性の逆転」しか思いつかない。そういう、創造性の貧しさがあるわけです。

と述べており、男女間に良い関係がなく、対立の図式だけが強調されるなら、スカートをはこうが女装しようが、人々が自由と幸福を手に入れることはできない、と指摘しています。

 多くの男性は、女らしい服装をしても精神的に解放されませんが、フェミニズムやメンズリブは、「男と女はどっちが得か損か」を考える未熟な思想であるゆえに、男らしさと女らしさを逆転させることで「自分らしさ」と言ってみたりするのです。

 トランスジェンダーではない多くの男性は、女性と同じ衣装を身につけても特に幸福になれるわけではありませんし、「女は得だ、男はこんなに損をしている」と思うことは、男女間の良い関係を作ることの妨げになるだけです。

 また、性同一性障害の方にしても、「男らしさ、女らしさ」の枠を壊すことは、自分の生き方の指針を無くすことと同じです。
 男性は単に男性として存在しているわけではなく、女性もまた単独で存在するものではありません。


 両性が互いに助け合い、仲良くすることが本当の意味での個々人の幸福につながるのであって、お互いに「男は損だ」「女は損だ」と言い合うことは、自由でも解放でもありません。男性が女性の生き方をうらやましがり、女性が男性をうらやむことは、お互いの幸福のためにもならないし、それは、友達が持つおもちゃを欲しがる子供のようなものです。

 男性と女性がいかに仲良く助け合って生きていくかを考えることが、お互いの幸福につながるのです。 

Publish at :2008/05/28(Wed) 23:00

ホームページ制作、ホームページ作成歯医者SEOインプラントインプラント0004493000044930