

メンズリブ(男性解放)運動は、1960年代アメリカで始まりました。
日本では1990年代以降、「メンズリブ研究会」が始まり、各地にメンズセンターのネットワークが広がりました。これは、男女共同参画社会法案の成立を受けて、各地に「男女参画センター」ができ、その活動と連動して起ることが多いものです。
メンズセンターを立ち上げた中村彰氏は著書「男性の生き方再考」の中で、
「メンズリブとは、『男らしさ』の中身を問い直す運動、一人ひとりの個性の尊重、女性との対等性を求める運動」
と定義しています。
メンズリブとは、だいたい
「男性もまた、女性と同様に男らしさを押し付けられ、競争社会を生き抜く強さや暴力を無意識に刷り込まれるが、その従来の男性像を捨て、自分らしく自由に生きることを目指す」ものとされています。
また、「男性の生き方再考」では、ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)に触れ、男性の暴力に苦しむ女性だけではなく、「一方、暴力を振るう男性も別の意味で傷ついている」として、こうした男性のために、メンズセンターで、サポートルームを運営するなどと述べています。
暴力的に振る舞うことは、男らしいことなのでしょうか。
神名女史は、
メンズリブの宣伝文を読むと、彼らがどのような男性観をもって生きてきたのかということが、よく判ります。
その中で否定されていることが、実は彼らの男性観でもあるわけです。いくつか箇条書きにして挙げてみましょう。
○業績や出世、プライドに心を奪われる
○自分のことも家族や身近のことも、ないがしろにして大切にしてこなかった
○他人にも自分にもやさしくなくて歪んでいる。暴力や争いがいっぱい
○強い、たくましい、競争に勝つ
○心に壁を張りめぐらす
○女性を押さえつける
このような生き方を「男らしさ」だと思って生きてきたのなら、人生の中で様々なトラブルに見まわれるでしょうし、くたびれるのが当たり前です。
だけど、このような「男らしさ」は、一般に考えられている「男らしさ」とどれくらい重なり合っているのでしょうか。
普通に考えれば、ここに挙げられているのは「男らしさ」として男性たちに共有されている事柄ではなく、むしろ「男性の悪い部分」なのです。しかも、すべての男性がこれらすべての「悪い部分」を持っているわけではありません。
いまさら、こんな主張をしているのは、悩みを打ち明けられる友達がいないとしか思えないのですが、これは私には「男性一般」の問題であるとは思えないのです。
確かに男性の中には、こういう事を必要とする人「も」いるでしょう。だけど、それは男性一般の問題ではなく、歪んだ男性観を持つ人の問題です。
別のいい方をすれば、これは「社会」の問題ではなく、男性としての実存的な問題なのです。
この人達の問題は、自分が抱えている「歪んだ男性観」を、男性ならば誰でも持っているものだと勘違いしている点にあります。
本当は「自分が」歪んだ男性観を持っているに過ぎないのに、それを勝手に一般化して語っているのです。
これは、後期フロイトの用語を借りていえば、実際には個人的な超自我の問題に過ぎないということになるのでしょう。
男性を個々に見れば、性的に実に多様な人がいます。しかし、一人の男性として「自分のなかの性的多様性」を抱えている人が、男性一般の話として語られるほどたくさんいるとは思えません。
それは、一般に男性が「自分のなかの性的多様性」に鈍感だということを意味しません。
と一蹴しております。
大多数の男性は、暴力的ではないし、女性を押さえつけようと考えているわけでもありません。大半の男性は、仕事と家庭のバランスをとって女性と協力して生きています。
では、このような考えは、どういった思想から出ているのでしょうか。
神名女史は、
誤解なさっているかたもいらっしゃるようですが、こういう主張はセクシャルマイノリティとは直接には関係がなくて、ポストモダン思想から出ているのです。
フェミニズムだって、マルクス主義やポストモダン思想などの「社会批判の思想」のアイデアを剽窃して使っているでしょう。それと同じことです。
ポストモダン思想は、「反・真理主義」を中心的なモチーフとしているために、人間がある特定の形に落ち着くことを否定する性質を持っています。これはセクシャリティについても同様で、「多様な性」とか「n個の性」というのは、ポストモダン思想が発祥です。
このような主張の根拠はおおまかには2種類あって、ひとつは文化人類学を根拠としたものです。
「パプア・ニューギニアやサモアでは、我々の世界とは全く違った男女の在り方をしている」とか、「歴史を遡れば同性愛が公認の社会だってあったのだ」という主張です。
しかし、まず現在の地球上に限っていえば、マーガレット・ミードのように報告そのものが間違っていること、そして実際には「男」や「女」が文化や文明の違いを超えた普遍性を持っていることが明らかになっています。
また過去の世界も含めていえば、そこに見られる特色は、私達の近代社会がとっくに乗り越えて、現代ではせいぜい辺境的な意味しか持たなくなったような「ひどさ」を伴っている、ということが見て取れるのです。
もうひとつはフロイトを曲解したものです。フロイトが幼児性欲の多型倒錯性を指摘したことを論拠とし、この多型倒錯性こそが人間の本来の姿であって、ほとんどの人間の性愛が異性愛の形を取るのは抑圧的な文化体系によるものだと考えます。
したがって、人間はもっと違った様々な形のセクシャリティの可能性に向かって開かれているはずだというわけです。しかしフロイトは幼児性欲の多型倒錯性を、単に事実として指摘したのであって、それが人間本来の姿であるとはいっていません。
またその後の研究も含めて、むしろ各発達段階において、上手く次の段階に進めなかったことが精神疾患(神経症や人格障害など)の原因だというのが有力な説だと思います。
と述べています。
伊藤公雄氏は、著書の「男性学入門」の中で、メンズリブの思想の基盤となる「男性学」(男性研究)について、
「男性研究が、男性性の複数性・多様性という視点を強調しているということだろうと思う」として、さらに、
「男性研究は、男性の抱く女性のステレオタイプを批判するとともに、男性が持つ多様な男性性に対して、それらを、男の目を通して内側から批判的に解剖することで答えようとしているといえると思う」と書いています。
つまり、男性性の多様性を知ることで、暴力的かつ抑圧的な従来の男性像から自由になれる、ということですが、神名女史はその考えを「ポストモダン思想から出ている」と位置づけています。
ポストモダン思想とは、本来的にはマルクス主義批判であった近代主義批判が、物質文明や資本主義、大量消費文化をも批判する立場に立つうちに、自分では何も主張できずに、相対主義に陥った状態を指します。
しかし、何かしらを主張しなければなりませんので、主張の方向性としては、理論を持ったマルクス主義の残滓を引っ張るしかないので、ポストモダン思想は、左傾化するのです。
神名女史が
「ポストモダン思想は、「反・真理主義」を中心的なモチーフとしているために、人間がある特定の形に落ち着くことを否定する性質を持っています。」
と指摘するとおり、メンズリブの世界では、一般の男性とはかけ離れた暴力的・抑圧的な「ゆがんだ男らしさ」からの解放として、「多様な男性性を認める」社会の構築を目指します。
普通の男性は暴力的でもないし、仕事だけ考えて家庭をなおざりにしているわけでもなく、もっとバランスの取れた存在ですが、メンズリブでは、男性を「暴力的かつ抑圧的」と見なすことで、「多様な男性性を認める」という結論に持っていくのです。
大半の男性が、暴力的ではなく、仕事人間でもなく、バランスが取れているという現実に立脚すれば、「多様な男性性を認める」という結論にはたどり着かないからです。
さらに、伊藤公雄氏は、「男性学入門」の中で、文化人類学者のマーガレット・ミード女史の研究にふれ、「(ニューギニアの)チャンブリ族にいたっては、男女の役割や、男らしさ女らしさの表現のスタイルが、まったく男女逆転して見えたのである」と書いています。
しかし、これに対しても、神名女史は
「マーガレット・ミードのように報告そのものが間違っている」
と述べています。チャンブリ族は、男女の役割が逆転しているとマーガレット・ミード女史は報告しましたが、その後、別の学者の調査では、やはり、
「チャンブリ族の伝統的概念では、男性は攻撃的で女性は服従的であり、この傾向は調査し得る範囲だけでも、少なくとも1850年までさかのぼれることがわかった。確かにチャンブリ族の女性は一家の稼ぎ手ではあったが、その労働の産物をコントロールするのは夫や父親であった。」
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign74.html
と神名女史は書いています。
これも、性差を否定し相対化することで、男女の役割が逆転した世界がどこかにあり、男性と女性の役割は本来流動的なものであり、確かなものは何も無い、という概念に人々を導くものです。
男女共同参画社会法案を背景に増えてきたメンズセンターや、メンズリブはこうした思想を背景にしたものです。
しかし、地球上にはさまざまな言語を話す多くの社会や国家、民族がありますが、男性と女性の基本的な役割が逆転した社会というのは、存在しないのです。
メンズリブとは、暴力的かつ抑圧的な歪んだ男性像を前提として、男女の性差を否定し相対化し、それを「多様な男性性」と称しているものなのです。