教育基本法と教育勅語にみる愛国心とその作法、天皇制と軍国主義について(4)

 教育基本法と教育勅語にみる愛国心とその作法、天皇制と軍国主義について(4)

 

共産党はじめ、日教組などの左翼の人たちは、教育勅語を「絶対主義天皇制を支える道徳」として、これの復活は、「軍国主義の復活」と見なしています。

新教育基本法が盛り込もうとした「愛国心」について考察するには、どうしても教育勅語だけではなく、天皇制(国体)についても触れることになります。

天皇制というのは、そもそも、左翼が言うように「悪」の根源なのでしょうか。

 

神名女史は、

 

丸山真男が戦後、

「日本人の無責任さを論じて、日本人がどんどん責任逃れをしてゆくとその責任は最終的に無答責の天皇にたどり着き、そこで責任が消える」という内容のことを書いていたと思います。

日本人の無責任さと責任逃れは役所や企業などに今でも見られますが、でもその原因が天皇(制)にあるのだとは、私は全然思わないのです。

むしろ、天皇制というシステムが存在するゆえに、日本人の無責任な部分が可視化されるのではないかと思います。

 

 これは、天皇制批判ではありません。

ここで指摘しておきたいのは、

「丸山や左翼の言い分もやはり無責任な民族性の内側にある」

ということです。

 丸山の言い分にはもっともらしく聞こえる面はありますが、自分達の無責任さを天皇に還元してしまう思考、それ自体が無責任な態度ではないかと思います。

立憲君主の在り方が「君臨すれど統治せず」だとしたら、その国民の在り方は「敬愛すれど依存せず」であるべきです。そうでなければ丸山のいう個人の自立など可能になるはずがないのですが、ここに彼の「限界」を見てしまいます。

 

 左翼も同じで、悪いこと、気に入らないことをすべて天皇(制)のせいにするのは、人形(ひとかた)に穢れを移して流すのと同じ、ひどく土俗的・呪術的な発想です。こういうのは、まったく合理的とも進歩的とも言えません。

戦後の左翼は、32年コミンテルンテーゼというお墨付きを背景に、天皇(制)批判という「呪術」を繰り返して来たに過ぎず、それが21世紀の現代でも続いているわけです。  

換言すればこれは「負の天皇依存」であり、結局は「無責任システムとしての天皇制」に回収されて行く構造になっていて、そのために日本の左翼は数十年を経ても相変わらず同じことを繰り返すしか能がないのです。

 もし彼らが本気で「2度と日本の軍国化を許してはならない」といい、「日本の軍国化の原因が天皇にある」というのなら、教育勅語を葬り去るのではなく、真正面から取り上げて、この記述が日本の軍国化を招いたのだと「論証」しなくてはならないはずです。

 

武蔵野大学(旧武蔵野女子大学)の杉原征四郎教授がこの教育勅語の教育史的意味についてイデオロギー色を排した研究をされています。そのため日本の教育学界には多い左翼教授から嫌われ日本教育学会での報告をさせてもらえなかったそうです。

 これも今回の「削除」と同じことで、こんな排他的な態度では、もはや学問とはいえません。

杉原教授の研究に異論があるなら発表させた上できちんと反論すればよいので、「削除」や「口封じ」では何も解決しないでしょう。 

ところが日本の左翼はあれこれと批判はするけれども、問題に正面から向き合って決着をつけることを回避し続ける。つまるところ最後は「呪術」になるわけです。

 

 本当に必要なことは天皇制廃止なんかではなくて、日本人の「脱・無責任」であり、天皇制を「無責任システム」であることから解放することだと思います。そしてこれは天皇制それ自体の問題ではなく、日本人の民度の問題であることが本質です。

いくら天皇(制)を論じても、私達自身の問題は、私達自身を見なければ見えてこない。「天皇(制)という存在」に依存することで、自分自身の姿を直視することを避け続けていたら、けっして解決し得ない問題なのです。

 

と述べています。

 丸山真男氏は、「戦争責任の盲点」という著書の中で、天皇の戦争責任に触れ、

「天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の『道義頽廃』の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある」

と述べ、天皇陛下の戦争責任の取り方は、「退位」しかない、と言った人です。

 薬害エイズ問題や役所での不正の見逃しなど、日本人の無責任さが現われる場面は、残念ながらあるのですが、この無責任さの根源を「天皇制」に求めるのは、明らかに飛躍した考えです。

 なぜなら、天皇制がない国にも無責任な人や悪人はいるからです。

 また、日本が軍国主義化した原因が天皇制にあるとするのは、さらに愚かな考えです。  

なぜなら、天皇制がなくても、軍備を持つ国はたくさんあるからです。

ろくに検証もしないで、社会のすべての「悪」の理由を、天皇制や、それを支える「教育勅語」に押し付け、思考停止に陥っているのが左翼の人たちの考えです。

もし、仮に天皇制がこの世からなくなったとしても、無責任さが引き起こす役所での不祥事がなくなるはずはありません。左翼の人たちが「天皇制反対」と叫び、その通りになっても、彼らの言ったことが立証されるわけではありません。

しかし、左翼の人たちは、天皇制が早晩にはなくならないことを前提で、「天皇制反対」と叫ぶのですから、これもまた一種の依存といえます。

天皇制と軍国主義は何の関係もないし、教育勅語が軍国主義的だというのも違っていて、国家が危機に瀕するときは国民もそれなりの決意をしなければならない歴史の必然を語っているに過ぎないのです。

 

では、ここで論点になる「軍国主義」の軍国、あるいは、軍隊とはどのような性質を持つものなのでしょうか。

   

 神名女史は

 

 私のHPに、自衛隊のイラク派遣について、「自衛隊に入隊した自衛官が、このような勤務に着くことを前提に入隊したとの保証はないのに命令で自衛隊員は派遣される」からよくないという内容の投書がありました。

 

 しかし自衛隊が命令によらずに自分達の意思で海外に出動することはあり得ません。

もしそんなことが起こったら、その方がよほど問題です。

こういう批判の仕方は、そもそも近代の軍隊というものが、まったくわかっていないのです。

 末端の部隊の場合は、上からの命令に従うということでいいのです。

 

 丸山真男は、戦争責任論において、軍人が「命令によってしたことだ」と弁明したことを「無責任」と批判しています。

参謀本部(大本営)の軍人が「命令によってしたことだ」と弁明したら、これは明らかに「無責任」になります。

なぜかというと、彼等は命令を出す側に位置しているからです。これをさらに上に(つまり天皇に)責任を押し付けてはいけない。それと関東軍のように出先で権限を越えて勝手なことをしてもいけない。

 

 だから丸山のいう「軍人」を、「参謀本部」に限定した場合には、一理ありますが、これを一兵卒に至るまで拡大して適用するならば、これは明らかに間違いです。

 

教育勅語には、「一旦緩急あれば義勇公に奉し、以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と書かれていますが、実際にはあの時代、幕末の志士のように暴走・暴発することをよしとする気風があって、これが国を誤った一因になっていると思います。

ただ、彼らが「幕末の志士」とはっきり異なる点があって、それが「『命令によってしたことだ』と弁明した」ということだと思います。

 本来ならば自分が自分の志で動くということ自体が、近代の軍人にはあり得べからざることで、これは基本的には江戸時代の藩士でも同じことです。

藩主より自分の志を優先させるというのは、江戸時代の武士の倫理にも反することなのですが、長州藩の場合には明治維新が成功して「結果オーライ」になってしまった。

この間、長州藩主は「そうせい侯」とあだ名される人で、主体的には何もしなかったのですが、ルール違反による成功モデルが、この時点で成立してしまいました。

 

 以後これが観念右翼の体質になって、昭和の戦争にもこれと同じ構造が見られます。しかし、今度は大負けに負けてしまった。

しかも主体的に責任をとる者がいなくて、あろうことか天皇が直接マッカーサーのもとに出向くことになった。

「国体護持」にこだわっていた強硬派の中で、進んでGHQに出向いて「すべての責任は自分にあって、天皇陛下の責任ではない」と身体を張った「忠臣」なんか誰もいなかったわけでしょう。

日ごろ勇ましいことをいう者ほどいざとなると腰が引けるというのは、私自身もかつては職務で嫌気が差すくらい目にしましたけど、これもその典型的なエピソードだと思います。

 

 戦後社会で「無責任体質」を最も露骨に引き継いでいるのが左翼ですね。勇ましく、理想理念を語りますが、誰も責任をとりません。

これは朝日新聞のようなマスコミもそうです。北朝鮮や文革を礼賛して、それは今では誰の目にも間違いだとわかっているのだけれども、誰も責任をとらないわけです。

 なぜかというと、理想理念というのは絶対に実現しないので、「私のいう通りにならないのは、まだ理想理念が実現していないからだ」という言い訳が常に可能だからです。

例えば戦後、ソ連を礼賛していた左翼が、ソ連の実状がわかってくるにつれて「あれは本当のマルクス理論からはずれているから失敗したんだ」といったりする。現実を無視する観念派(理想理念派)くらい始末の悪いものはありません。

 

 少子化問題だって、ジェンダーフリーが有効な対策になるわけがなくて、それが露呈しても、請合ってもいいけど、責任をとるフェミニストなんか絶対に出てきません。

「あれは男女共同参画という国の方針だから国が悪いんだ」とか、「まだまだ性差別が残っているから効果が出ないんだ」とか、必ずそういうエクスキューズが出てくるでしょう。 

フェミニストの言う「自立」というのも、やっぱり本質的には「無責任」なわけで、これは丸山の指摘の是非がどうあれ、間違いなく「現在の問題」なのだと思います。

 

と述べています。

 ここでは、上部の意向に従わない軍部の暴走を良しとする風潮は、軍国主義本来のものではなく、明治維新の経緯によるものだとしています。軍国主義のすべてが悪かったのではなく、命令から逸脱することを良しとする、近代の軍人にはありえない風潮が良くなかったのです。

軍国主義を進めたために、工業や技術が発展し、日本を近代化に導いた一面もあり、これが悪だけの存在とは言えません。

 天皇陛下は単身、マッカーサー元帥のもとに赴き、責任をとろうとしたのですから、丸山真男が主張するように「ウヤムヤのままに居座った」というのは違います。

 しかし、一方的に「あれが悪、これも悪」とする左翼の人たちこそ、言論の責任をとろうとしない風潮はしばしば見かけるところです。

 誰かを一方的に「諸悪の根源」として断罪し、排除するのはいかにも未熟なことであり、無責任なことです。

 本当に、戦争の無い平和な社会を実現させるのであれば、わたしたちが諸悪の根源と思う教育勅語や軍国主義の、どこにどういう問題があったのか、改めて検証すべきなのです。仔細に検証すれば、わたしたちが見落とした歴史の盲点も、見つかるはずなのです。

 


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