教育基本法と教育勅語にみる愛国心とその作法、天皇制と軍国主義について(2)

教育基本法と教育勅語にみる愛国心とその作法(2)

 

 教育基本法を改定するに当たって、盛り込むかどうかの争点となった「愛国心」ですが、ここでの「愛」とは、どういう内容なのでしょうか。

神名女史は、

 

フランス革命の標語は、「自由」「平等」「博愛」とされますが、この「博愛」は、むしろ、「同朋愛」と訳すのが適当かと思います。

「兄弟」では狭すぎるし、「博愛」とか「アガペー」では広すぎる。これが国家の標語として掲げられたという、状況の文脈を考えれば「同朋愛」が適切と思われます。

 この場合の「愛」というのは、もちろん「家族」や「恋人」の結び付きの原理としての「エロス」ではなく、「心情的な結び付き」という意味です。

と述べています。

 そもそも、「愛」という言葉は、何かを好きになったり肯定したり認めたりする感情のことですが、その対象は、国家だけではなく、家族愛、自己愛、男女間の恋愛など多岐に渡る言葉です。

 元々は、「愛」とは、愛しく離れがたい感情を意味しました。

しかし、近代になってからは、西洋文化の影響で、「愛」という言葉には、「キリスト教の愛の概念であるアガペーや、エロス」などの異なる概念も意味されるようになりました。

しかし、西洋伝来の言葉や感情を日本語で表現する時、微妙なニュアンスはなかなか伝わりにくいものです。

 

さて、男女間の恋愛においても、異性には、「これだけは言ってはならない」禁句があり、作法があるように、愛国心にもそれなりの作法があります。「愛」にも作法があるのです。

神名女史は、

 

 世の中の多くの人たちにとっては、まず自分自身を救い、よく生かしていくことが一番大切な問題で、世の中や社会のことは二の次、三の次になるものです。

ニーチェの言い方を借りると、「まず自分が大事、それから近親や友人が大事、それから世の中が大事」というのが人間の「道徳」の自然性です。

 

 逆にいうと、自分のことが「一番大切な問題」ではあるのだけれど、それをすべてだと考えてはいけないのです。

 

 自分自身の人生はうまくいっているけれど、世の中は矛盾に満ちたひどい状態だとすると、何か嫌な気がするものです。

つまり、世の中が非常に矛盾に満ちた状態で、どんどん悪くなっていくけれど、自分は上手くやっているから、周りのことはどうでもいいと思える人がいたら、それはその人の内側が一種のニヒリズムの状態になっているということです。

それは、「世の中は所詮は力だ」とか、「人間は所詮利口なやつが得をする」というような考え方だけがその人の中で生き残っていることです。

 社会的な問題を考える場合の基本は、まずは、自分の身の回りの具体的な関係を考えることです。

それがもう少し進むと、たとえば職場で一緒に働いている人も、その中に入ってくる。そういう関係の中で問題が起こったときに、どうやって努力するかということを考える。個々人にとっては、そういうことの展開形というか、延長線上にあるものとして、社会の問題は考えられなくてはいけない。

 

 しかし、「自分のことだけを考えてはいけない」のは確かですが、考え方が逆転してしまうのも、いけないのです。

逆転というのはどういうことかというと、自分の周囲の具体的な問題から解決していくことではなく、まずは最初に、ある理念とか、理想的な規範、たとえば「国家権力を廃絶すべし」とか「絶対平等を実現すべし」という規範が至上命題になって、そこから周囲の具体的な問題を演繹的に判定していくような考え方をするということです。

 

 こういった逆さまになった思考法の代表には、フェミニズムがありますし、セクシャルマイノリティの中でもフェミニズムシンパになるような人達は、そういう考え方をします。自分の身の周りの具体的な関係に問題があるのは、国家が悪いからだ、社会が悪いからだと。こういう考え方には「自己愛」以外のどんな意味の「愛」もありません。

として、愛国心を発揮するに当たっての「作法」について述べています。

 愛国心とは、自分自身をまずは大事にすることから始まって、自分が大事なように周囲の家族も友達も大事な存在であるとし、それが広がって社会全体を視野に入れるべきものです。

 最初に、「理念」があって、それを実現するための道具として、周囲の人間関係があってはならないのです。左翼もそうですが、自分と反対の思想を持つ人の家に直接、火炎瓶を投げて無関係の人を殺すような極端な右翼の中にも、一部はこういう人が居ますが、これは、話が逆なのです。

 最初に理念があると、周囲の人たちの心に気がつかなくなりがちです。まずは、何事にも作法があるのです。

 では、「愛国心」という言葉を最初に使い出したのは誰なのでしょうか。

 神名女史は、

 「愛国心」に近い「同胞愛」に近い概念を近代原理の中で最初に言い出したのは、「国家や、私有財産や家庭などの値打ちを否定した」として、反近代保守の人たちがしばしば、目の仇にしているルソーです。

『社会契約論』の終わりに近いほうで、彼は国民宗教ということを言い出します。

 このモチーフは何かというと「社会や国家における人間同士の結びつきは理論だけでは作れない」ということです。

 

1762年にルソーが書いた「社会契約論」は、パリやスイスのジュネーブなどで、「社会の秩序を乱し、キリスト教の教えを破壊する」という理由で禁書になりました。   

そのことについて、反近代保守の人たちは、「ルソーが反伝統主義者だからだ」と勘違いしているようですが、ルソーが国民宗教としてキリスト教を採用していないのは、彼が反伝統主義者だからではありません。

ルソーによれば、キリスト教が「神の国」の宗教であって、その教義上、世俗の国家の原理になり得ないからだと、はっきり書いています。このことはカトリックが古代ローマ時代から掲げてきた「二王国論」を見ればわかります。

 

「キリスト教は『神の国』の宗教であって世俗の国家には介入しません、反ローマ帝国の宗教ではありません」

と言い続けてきたわけですから、キリスト教を世俗の国家の原理として採用することはその教義上、背理なのです。

 

 私の考えではキリスト教に限らず、そもそも国民同士の心情的な結び付きが「宗教」という形をとらなくてはならない必然性はないと思います。

 

 しかし国民国家や近代社会には、メンバーシップを持つ自分達と、そうではない人達という区別がある。それを前提とした「われわれ」意識とでもいうべきものは不可欠です。このことを最初に指摘したのがルソーだったわけです。

 

 この「われわれ」意識は、「あなたも含めたこの範囲の人達が『われわれ』ですよ」と教えるだけでは(つまり理屈だけでは)、なかなか実感できません。

 なぜかというと「社会」とか「国家」というのは、目に見える範囲や身の回りの具体的な関係をはるかに越え出た、広い範囲の関係だからです。そういう、いわば抽象的な関係を、どうすれば実感することができるのかという問題がある。「われわれ」が結束するためには、「われわれ」の範囲に共通する何かが必要なわけです。

 

 アメリカのような国では、国民というメンバーシップそのものを、そのための共通項にしています。いたるところに星条旗があって、「建国の精神」を説いたりする。これも一つの方法でしょう。アメリカに限らず複数の民族で形成される国家では、そうせざるを得ません。

 

 ただし、それは手段であって目的ではありません。目的はあくまでも理論(近代原理)の側が示しているからです。逆にいうと、その目的を実現するためには理論だけでは足りない。「われわれ」意識=「同朋愛」のようなものを実感できる必要があって、そうでなければ理論はあくまでも理論に過ぎないという話になってしまう。どちらが欠けても近代国家は実現しません。

 だから現実にも左翼(ここではポストモダニストを含む広い意味の)は、「国家」とか「民族」といった概念を批判することによって、「われわれ」意識を相対化しようとしているわけです。

 

と述べています。

 国家や私有財産などの観念を否定し、キリスト教を否定したとして、日本の保守派からは「反伝統主義者」とされ、「左翼の元祖」とも言われるルソーですが、「国」という組織を形成する国民を束ねるためには、理論だけでは足りないので、「国民宗教」という形で、何らかの「同胞愛」が必要であり、それがこんにちの「愛国心」に近いといわれます。

 ルソーが引き合いに出した「二王国論」はローマ教会特有の考え方で、地上の権力は国王が握り、霊的・宗教的な権力はローマ教会が握るとする、二元的な体制を意味します。近代憲法での「政教分離の原則」も、元々はここから始まったといいます。 

 ですから、ルソーが、国民を一致団結させるために、「宗教心」ではなく、愛国心に近い「同胞愛」を訴えたのは、反伝統主義者だからではなく、あくまでも、ローマ教会が「二王国論」をとったことで、宗教に代わるものとして「同胞愛」という概念を打ち立てたのです。

 

 日本に住む民族は、黄色人種が圧倒的多数でありますが、少数民族や他地域から帰化してきた人たちも存在します。

多数の黄色人種の人たちが「日本」を形成するように、他地域から帰化した人や少数民族の人たちも、「日本」を構成する人々であり、わたしたちは平等な人間です。

国旗や国歌は、出自の違うわたしたちを一致団結させる手段にはなりますが、日の丸や君が代は、団結させる手段であっても、それ自体は目的にはなりえません。

出自の違うわたしたちが真に団結してよい国家を作るには、自分を含めた周囲に対してより良い働きかけができることを考え、それから順じ、国家について考えて、住みやすい国家を作ることを考えることです。

その結果、本当に国家がより良いものとなれば、国が国民を守る形になり、安定した国家を作ることができます。

さまざまな出自の人がいるからといって、国家を否定したり、「君が代」や「日の丸」を否定することは、良い国家を作ることにならないし、国を愛することにもならないのです。 


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