

教育基本法と教育勅語にみる愛国心とその作法(1)
日本の教育の根幹を定める教育基本法(旧法)は、1947(昭和22)年3月31日に施行され、それまでの教育勅語に代わるものと見なされましたが、実際には、1947年から48年までの1年間は、旧教育基本法と教育勅語が両方存在していた時期でした。
教育勅語には、
「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」
と道徳律が書かれ、さらに、
「非常事態とあらば、公のため勇敢に仕え、天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべき」
という愛国心も盛り込まれていたものだったので、この教育勅語が廃止になった時から、残った教育基本法(旧法)に、教育勅語の精神を盛り込む内容にすべきだ、と議論が沸き起こりました。
しかし、教育勅語は、「軍国主義を想起させる」として、戦後、教育現場で聞かれることはほとんど皆無になりました。
その後、卒業式などで国歌斉唱や国旗掲揚があると、日教組の人々からは、
「愛国心を強制すべきではない」
「日の丸・君が代は戦前の暗い歴史を思い出させる」
などと反対する動きもありました。
しかし、これを不満とする人たちが、
「基本法に『愛国心』を盛り込むべきだとして、活動した結果、2007年12月に施行された新しい教育基本法(改訂版)では、2条に
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」
という一文を盛り込むことで、愛国心について触れることができました。
とはいえ、
「もっと奉仕の精神を盛り込むべきだ」「いっそ、教育勅語を復活できないものか」といった声も聞かれます。
新教育基本法の争点の一つは、「愛国心」でありますが、そもそも、愛国心とはどのようなものでしょうか。
わたしたちは誰もが故郷を持っています。都会に出てから、街中で、ふと耳にした故郷の民謡を聞いて、思わず懐かしさにかられたり、郷土料理を出してくれる料理屋さんの看板に目が留まったりすることが、あります。
子供の頃から同じ場所に住んでいる人も、変わりゆく町の景色を懐かしむことがあります。
日の丸・君が代を語る以前に、わたしたちは郷土に対しての思いや、それを拡大しての「国」に対しての何らかの思いがあります。
「郷土愛」「愛国心」とはどういうものでしょうか。
神名女史は、
戦前の反省を十分踏まえた上で、愛国心を法律で規定することを慎重に検討する必要があるということに、おおむね賛成です。郷土と国を愛することは、「統治機構」を愛するということではありません。
では「統治機構」ではない「郷土と国」とは何でしょうか。
まず「郷土」からいうと、これは要するに「ふるさと」ですね。たとえば日本人同士の会話で「お国はどちらですか」と訪ねられて「日本です」という人はいないでしょう。
「北海道です」とか「鹿児島です」とか答えるわけですね。
この問いの答えは都道府県名でなくて、
「南部です」というように「青森県太平洋岸から岩手にかけての地方」の名を挙げてもよいわけです。
この「ふるさと」というのは単なる地域名ではなく、「そこ」の自然(気候風土)と文化と歴史を含んだ概念です。
青森県というのは今でも「津軽」と「南部」の区別にこだわるそうですね。
昔は藩も別だったわけですけど、気候風土や文化(方言や広い意味での風俗)も異なる地域です。
島根県でも出雲と石見とでも同様の事例があるそうですし、静岡県も伊豆と遠江を同じ文化圏と考えるには無理があります。
そういう「こだわり」が今でもあるわけです。
このような「ふるさと」に対する愛着が「郷土愛」ですね。この「郷土愛」という感情それ自体は、いわば人類に普遍的なものであって、日本人に限らず、どこの国の人でも持っています。
もし「郷土愛」に関して問題が生じるとしたら、「郷土愛」それ自体が悪いのではなくて、その発露の仕方に問題があるのです。これは「差別」の問題と同じことで、他の地域や国を貶めることでしか「郷土愛」を発揮できないとしたら、とても貧しい「郷土愛」ですね。
個人の場合でも、他者との比較でしか自分の価値を確認できない人がいるとしたら、その人はかなり自信のない生き方をしているわけです(笑)。
しかし、自信を持って生きること、それ自体を否定するわけにはいきません。「郷土愛」もそれと同じことです。
「郷土愛」というのは、人類普遍の感情であるがゆえに、他の国や地域の出身者もまた「彼」の「郷土愛」を持っていますから、そのことを認める必要があるのです。
ちょうど、近代が「自由の相互承認」で成立するのと同じように、現代の世界には「郷土愛の相互承認」が必要です。しかし、そのための第一段階として、まず自分自身が「郷土愛」を持たなければ、「相互承認」もあり得ません。
自信のない卑屈な人間が他者から尊敬されないのと同じように、「郷土愛」を持たない人間は「お前はろくでもない国に生まれたのだな」といわれても仕方がありません。
しかし、これでは他者(他国人)と、対等な付き合いをすることは出来ません。
また、「尊厳」ということを勘違いしてエゴイズムで凝り固まった人間も尊敬されません。
それと同じように、他国人の「郷土愛」を理解しない人間も、「彼ら」とよい関係を結ぶことは出来ません。したがって、日本の「郷土愛」の教育は、他の国ではなく、まず「日本の郷土愛」を教えることから始めなくてはなりません。
と述べています。
まれに、東京に対してコンプレックスを持つ人が、「大阪のほうが東京より良い」「どこそこのほうが良い」などと言うことがあります。
完全無欠な人間がいないように、すべての人の文化的な好みを満たせる都市も、なかなかあるものではありませんが、だからといって、他の地域の悪口を言うことで、自分の愛する地域を称えるのも、寂しいものです。
自分が満足して住む地域があるように、他の地域に住む方もそれなりに思いがあってそこに住んでいるのですから、自分の気持ちが尊重されるように、他の人がそれぞれ郷土に対して持つ「思い」も尊重されるべきです。
わたし個人は北海道出身ですが、「北海道」とは単なる行政上の一地域ではなく、冬は寒く夏は涼しい気候や、海産物が美味しいとか、アイヌ民族や屯田兵の開拓の歴史や、独特の民謡などのさまざまな文化で織られた地域でもあります。郷土とは、そのようなもので、郷土愛とは、そこに結びつく愛着心なのです。
では、個々人がそれぞれ郷土への愛を持つとして、このそれぞれの郷土の集合体である「国」および「愛国心」とはいかなるものでしょうか。
神名女史は、
「国」は、「お国はどちらですか」という場合の「国」とは区別されるもので、つまり「国家」のことです。「国家」は、ある一定の範囲に住む人々(国民)と、その範囲(領土、領海、および領空)を必ず含みます。
そして、国民のルール(法律)を持ち、国民はそのルールに従って暮らしている。そして統治機構を持ちます。つまり「国家」が統治機構を有するのであって「国家=統治機構」ではありません。
さらに「近代国家」になると、もう少し条件が増えます。まず、「国家」は国民のために存在するということ。法律も、国民が自分たちで作って(国会議員を介するという形で)、自分たちでそれに従う。
この観点からいえば「外国人参政権」というのは矛盾した概念です。なぜなら、そもそも「外国人」というのは、ここにいう「自分たち=国民」に含まれないからです。
また、いわゆる「国益」というのも、「国民のため」ということであって「統治機関のため」ではありません。国防も外交も、国内の行政も国民のためにあります。
つまり、国民は一方的に「国家」に対する忠誠や「愛国心」を強いられるのではなく、「国家」が自分たちの生活と安全の基盤をなしているから、それを守り大切にする動機を持つわけです。
として、国家が構成されるに足る要件を述べています。
近代国家では、国民が国家に一方的に忠誠を強いるのではなく、国家が国民のために存在していて、警察も行政も法律も国民のためにあるために、それを大事にするという意味で「愛国心」が生まれる動機があるのです。
神名女史は、
ですから近代国家における「愛国心」というのは、「国家」の在りようと表裏一体の関係にある概念です。
どんな「国家」でもとにかく愛せというのではダメで、「愛されるに値する『国家』とは何か」という問いと切り離すことが出来ません。
したがって「愛国心」を教えるに当たっては、この「愛されるに値する『国家』とは何か」を教えることとセットでなければならない。これが私の考えです。
わたしたちはまず、「よい国家」とは何か、「悪い国家」とは何か、「よい権力」とは何か、「悪い権力」とは何か、をきちんと考えられる国民を育てる必要があるのです。
その上で、自国が「悪い国家」になりそうな場合には、それを阻んで「よい国家」にしようという動きが国民から出てくるようでなければ「国=国家」は滅びます。
わたしたちが、自国を「よい国家」にしようという動きは、国民にとって、「国家」が自分たちの生活と安全の基盤であるということに動機があるわけです。
このような発想は、「国家」や「権力」を無条件に「悪」として否定し、国民は国家権力に抑圧されている存在だとする左翼思想からは出てこないでしょう。
少数の悪党が国家権力を握っており、善良な人民を抑圧しているのが「国家」だ、というような国家観では、「愛国心」という概念は生まれてきません。
逆に、「国家」を無条件に肯定すべきだというのもダメなのです。
この日本がどんなに「悪い国家」になっても、無条件にそれを肯定しましょうというのは、本当の「愛国心」ではありません。
これは「国家」を「企業」に置き換えてみればわかると思います。
近年では「雪印乳業」や「三菱自動車」のような会社ぐるみで不正を働いた例がありますが、自分が勤める企業が不正を働いているとしましょう。
それを正すのが愛社精神なのか、それともその不正に加担するのが愛社精神なのか、ということです。
と述べています。
日本に生まれたのだから、日本がどんな方向に向かっていこうとも日本を愛せ、というのではないのです。
愛国心とは、個々人が、「どういう日本なら愛せるのか、どういう国家を作り上げるべきか。どういう国なら住みやすく愛着が持てるのか」を考えて実践することであり、愛国心を発揮した結果、住みやすくなった「国家」が国民を守り、さらに国民が国家を愛せるようになって「愛国心」もまた増すのです。
国家と国民はばらばらに存在しているのではなく、真の愛国心が国を良くする方向に動かし、そして国家が良くなれば国民もまた国に守られることになるのです。
国家と国民をつなぐ概念として「愛国心」があるのですが、では、他国への「気持ち」はどのように表現されるべきでしょうか。
新教育基本法が制定される時、
「文部科学省は、仮要綱案に『他国』への尊敬の念などを盛り込むことを検討したが、省内から『他国では北朝鮮が含まれて不適当』」と声があがるなど、日本以外の国や価値観への敬愛などの扱いをどうするかが検討されました。
(新教育基本法には盛り込まれていません)
確かに、北朝鮮は日本人拉致問題を含め、まだまだ解決できない問題が横たわっており、国家ぐるみの犯罪的な行為があるとされています。
しかし、どんな国にも「このままでは良くない」と考える個々人はいるし、そこで暮らす人々がいます。
こういう場合はどのように考えたらよいのでしょうか。
神名女史は、
「北朝鮮は尊敬に値しない国家であるから、新教育基本法に『尊敬の念を盛り込む』のは不適当」というのは、少しおかしい意見です。
なぜならこの反対意見は、「北朝鮮」という「国」と、北朝鮮の「統治機構」を混同しているからです。
北朝鮮の「統治機構」は尊敬に値するものではありませんし、北朝鮮という「国」の現在の「在りよう」が尊敬に値するとは思えません。
しかし、国家の統治機構のあり方と、北朝鮮にも多くの人々が「国」を作って暮らしている事実とは、違うのです。
この事実は、「尊重」はされるべきです。
今の北朝鮮は、私から見ても「悪い国家」ですが、だからこそ、そこの国民が自国を「よい国家」にしようと立ちあがった場合には、応援したくなる気持ちが生じると思います。
北朝鮮の国民が立ち上がり、自国を良くしようとする動きは、「日本にとってもよいことだ」という動機も含まれていますが、それだけではなく、まっとうな国として自立することが「彼ら」(北朝鮮国民)にとって良いことだから、それを応援したいという気持ちもあるわけです。この気持ちは「尊敬」とはいえないまでも「尊重」くらいには表現してもいいと思います。
と述べています。
わたしたちが「日本」を愛するように、どんな国にも憂国の志をもった人はいますので、その人たちの「愛国心」もまた、尊重されるべきものです。
この新教育基本法制定に当たっては、「児童の権利に関する条約」の29条の、「 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」に照らし合わせて「自国より、児童の親の出身国の国民的価値観を尊重するべし」という意見も出されました。
(これもまた、新しい教育基本法には、盛り込まれませんでした)
「国民的価値観」とは、外国人の子弟に、「その出身国を愛せよ」と日本の教育機関が教えることとなります。
外国人の子弟が、出身国の文化を尊重する内面の自由はありますが、日本の教育機関で、「出身国を愛せよ」と教えるべき問題なのでしょうか。
神名女史は、
これは本当におかしな話ですね。日本で生活する外国人の子弟の「民族的価値観」は尊重されなくてはなりませんが、「国民的価値観」というのは「ふるさと」ではなく「国家」に関する価値観となります。
たとえば、ドイツ人の子供に「あなたたちはドイツという国家を愛さなくてはならない」と教えるのは、間違いではありませんが、しかし、それが「日本の教育」が教えるべきことかどうかというのは、別問題です。
少なくとも、それは日本の公教育が担当する問題ではないと思う。もちろん、これは逆も真なりで、アメリカなりフランスなりの公教育で、日本人子弟に「日本という国家を愛しましょう」と教育することを期待すべきではないということです。
ただし、各国の愛国教育を通じて、自分の愛国心を考えるきっかけとすることはできます。
ドイツの学校で「ドイツ国家に対する愛国」の授業があったとして、その学校に通う日本人子弟は、その授業を通じて「これは自分の場合には、ドイツ国家を日本国家に置き換えて理解すべきだな」と考えた上で、「自分の愛国心」について考えることはできます。
そういう「間接的愛国教育」の効果はあると思います。ですから、他国人の子弟に対しては、
「君たちは日本ではなく、自分の国の国家にたいする愛国心について考える必要があるんだよ」という契機は与えられるとは思います。
しかし、その具体的な内容については、日本の公教育が担当することではないので、家庭教育にゆだねる、というのが妥当な範囲かと思います。これは他国における日本人子弟にもいえることで、いわば「お互いさま」です。
日本で「自国より、児童の親の出身国の国民的価値観を尊重するべし」を実施せよというのなら、同時に他国で日本人子弟が受ける教育に対しても、同じことを要求すべきでしょう。
「児童の権利に関する条約」を根拠としてこういうことをいうのであれば、少なくともこの条約を締結している他国に対するそういう要求とセットでなければ、筋が通りません。
そういう要求をしないというのであれば、日本人に対する愛国心教育をないがしろにしているといわれても仕方がない。教育基本法に、なぜそんな片務的な規定を盛り込まなければならないのかという話になります。
と述べています。
こういった「自国より、児童の親の出身国の国民的価値観を尊重するべし」という考えは、つまりは「価値観の多様性を認める」ことにつながるのですが、他国の文化を尊重する自由と、日本の公教育で他国の子弟に「出身国を愛せよ」とすることはまったく別問題であります。
そういう考えが出てくることそのものが、日本人が「愛国心とは何か」を真剣に考えなくなったことの証拠なのです。