なぜ「従軍慰安婦」は問題になるのか(続)

 戦時中、明日をも知れない兵隊さんが、慰安婦の女性との接触でつかの間の安らぎを得たとされていますが、現代も、性風俗の女性と、つかのま、性欲だけではなくちょっとした優しさを得る男性もいます。

 もし、わたしが男性であり、恋人もいなくて、寂しい生活をしていたら、もしかしたら、性風俗の店で出会った女性に、かすかな恋心を持ったり、永井荷風の小説のような体験をした可能性があります。

 しかし、かといって、自分の娘や、友達の女性が慰安婦さんや性風俗店の従業員になりたいと言ったら、四の五の言わず、

「止めなさい!」と叫ぶと思います。こんなわたしは矛盾しているでしょうか。

 

 神名女史は、

 

 男性が水商売の女性(風俗なども含めて広い意味での)を見る場合には、相反する2種類の眼差しが存在します。

 一つは、そこで楽しむ男性としての視線。もう一つは、そこで働く女性に対して「そんなことをすべきではない」という視線です。

 

風俗店では、遊ぶだけ遊んだ後で、女の子に対して「どうしてこんな仕事しているの、親は知っているの?」と言い出す「説教オヤジ」と呼ばれる客が、必ずといってよいほどいるものです。

 私はこれを、男性の性風俗に対する「二重の眼差し」の、ひとつの典型例だと思います。

これは、典型的な例であり、で決して特殊な存在ではありません。

 この「二重の眼差し」がどうして生じるのかといいますと、まず「性風俗店で楽しむ男性としての視線」というのは、女性のエロスを享受したいという男性の欲望に根差しています。

もうひとつの、「自分の娘や、知り合いの娘さんはそんな仕事をすべきではない」という視線は、家族原理に由来します。この「二重の眼差し」は相反するものだけれども、それぞれ根拠があるのであって、どちらかが本当でもう一方は欺瞞だというようなものではありません。

 家族原理の一つは、性愛的な結び付きにあり、しかもその性愛的結び付きは相互の独占という形を取っている。これが、風俗店のありようと対立するわけです。

 

 「自分の娘や知り合いの娘さん」のような、自分から見て近い範囲に存在する女性が風俗や水商売に入ることを反対する理由も、ここにあります。上に書いた「説教オヤジ」の「親は知っているの?」というセリフも同じことで、売春や性風俗店の営業内容が、家族原理と対立するものだということが、よく表れています。

 

 昔の日本では、この二重性から生じる矛盾はトポロジカル(場所論的)に分けることで解決されていて、そのために遊郭というのがあったわけです。

男性の生理からいって、多少の女遊びはするのは仕方がないけれども、しかし決してそれに溺れてはならず、ちゃんと家庭に(親や妻のもとに)帰ってくる。現在でも意識の上ではこういう分類が生きていると思います。

 

 逆にいえば、この分類を無視して「二重の眼差し」をないまぜにしてしまうと、とてもややこしい話になるわけです。

たとえば「従軍慰安婦」問題を国家糾弾の文脈で立ち上げる人たちの視線には、この二重性がなくて、「そんなことをすべきではない」という視線だけですべてを語っている。

 

 「従軍慰安婦は悲惨だった」とする左翼の男性も、本当は、女性のエロスを楽しみたいとする視線と、「うちの娘にはこうなってほしくない」という視線とに、「二重の眼差し」を持っているのだけれども、「従軍慰安婦」について語る場合には、「楽しむ男性」の視線を自ら禁じ手にしてしまっている。

 

 私が「水商売蔑視」を感じるのも、ここに理由があります。それは、いわゆる「従軍慰安婦」問題を「そんなことをすべきではない」という視線だけで語っていることが、その理由です。

さらにいえば、これは「国家の下半身」という大層な話ではなく、本質的には個々の男性の「純粋下半身問題」の話なんです。

 

 この「純粋下半身問題」というのは、しばしば男性に対して罪障感のもとになったり、逆に、開き直った場合には途方もなく下品で露悪的な発現として表れます。そのために、とても語ることが難しい問題なのですが、あえて挑戦してみます。

 

 まず男性の性欲の特徴は、それが恣意的なものではなく、いわば男性主体を支配するような形で「やってくる」ような、「どうにもならなさ」を持つものだということです。

それは無条件に解放すれば社会秩序が崩壊しかねないような危険性を持っているのですが(たとえばそれは戦時には、占領地における強姦事件の頻発という形を取ります)、なくしてしまうことは出来ない。ならば、何らかの形で「どうにもならなさ」と折り合いをつけるしかないわけです。

 

 戦時だからといって、このような男性の性欲の在りようが根本から別ものになるということはありませんから、これも戦時と平時とを問わない問題です。しかもこの問題は、「そんなことをすべきではない」という視線だけで語ることによっては、決して解決できません。なぜなら「そんなことをすべきではない」という視線から出てくる答えは、解決策の放棄以外の何ものでもないからです。

 

 いわゆる「従軍慰安婦」問題を、「そんなことをすべきではない」という視線だけで語るということは、「ではどうするべきだったのか」という答えを決してもたらしませんし、したがって、このような問題の立て方は、そもそも問題の解決を目指すものになっていません。

 

 しかし、最初から糾弾を目的とする場合には、このような問題の立て方をする方が都合がよい。

よいのだけれども、しかしこのような一面的な見方をすることで成立するような問題意識それ自体が、はたしてどれほどの妥当性を持っているのかということを考える必要があると思います。

と述べています。

 男性の性欲は、排泄したい欲望の形をとることもあり、平和な時代も戦時中も男性の生理のあり方は変わりません。 

しかし、平和な時代は、繁華街の風俗店に女性が働いていても誰も何も言いませんが、これが戦時中のことになると、男性である兵隊さんは一方的に断罪されてしまいます。

 これは、男性の中に、「女性と楽しみたい」という気持ちと、それと相反する「自分の娘や親しい関係の女性には、そんなことをしてほしくない」という気持ちがあり、従軍慰安婦問題では、「そんなことをすべきではない」という意識だけが出てしまうのです。

 

 男性には、「どうにもならない性的欲望」が付き物だとして、従軍慰安婦や、性風俗で働く女性たちは、「性の商品化」にされているのでしょうか。

 

 神名女史は、

 

性風俗店の女性に対して、「性の商品化」とよく使う言葉ですが、これも注意が必要な言葉です。ここで「性の商品化」=「悪」という価値観を置いてしまってそこを出発点にすると上手くありません。

 

 売春その他の射精産業から、ポルノ、果ては女性の水着写真を使用したグァムや沖縄の観光ポスターまで、すべて糾弾の対象とするような言説になって行くわけです。実際、80年代にフェミニストが観光ポスターに「このポスターは女性差別です」と張り紙をして行く活動もありました。

 

 もちろん「性」というのは、ある種の「恥ずかしさ」や「後ろめたさ」を伴うことが常態だとも言えるのですが、それを罪障感としてあまり過剰に背負い込まない方がいいのです。

 

 性風俗店の女性に対しての、男性の「二重の眼差し」というのは、相反するものだけれども、人間は(というか男性は)その矛盾を引き受けて生きて行くように、いわば宿命づけられていて、その上でどのように生きてゆくかを考えて行くしかないと思います。むしろ、どちらかの視線を捨象することで、かえって現実不適応を起こしてしまうことが問題なのですね。

 

 売買春というのは、「男女間の経済的な格差に基づく優越性をもつ男性が、性的に特典的な地位利用をして、女性を性的に支配する」ということではありません。フェミニストの中にはそういうことを言う人もいますが、しかし、女性が経済的に恵まれたら男女の「買う・売る」の関係が容易に逆転するかといえば、私にはそれはちょっと考えられません。

 

マルクス主義の影響を受けた思想では、経済(下部構造)がセクシャリティを規定するという話になるのかもしれませんが、そもそも、そんなものが経済に還元できる問題だとは思えないのです。

 

 これは、女性兵士が存在する現在において、女性兵士用の「慰安所」が設置されるかという問いにも関係することですが、男女のセクシャリティの非対称性ということを考えておく必要があると思うのですね。

 

 フェミニズムでは男女の性差を否定しますから、セクシャリティの非対称性についても、それは社会的・後天的に「作られた」ものであって、いくらでも変わるんだ、などと言います。

だけど、私はこの主張こそが、性差否定という前提から「作られた」言説なのだと思います。売買春に限らず、セクシャリティについても、フェミニズムのいうことを鵜呑みにせずに見直してみた方がいと思います。

 

 たとえば、男性向けのいわゆるエロ本では、女性の裸体のグラビア写真が必ず載っています。だけど、女性向のエロ本とでもいうべきレディスコミックを見ても、男性の裸体のグラビアページは存在しません。

もちろん、レディコミ誌というのは女性が気軽に買える価格設定をしているわけですが、だからといって、男性のセクシャリティとまったく対称をなすような内容になっているわけでは、全然ない。

 とりあえず簡単に書いておくと、男性は女性の身体それ自体に対して発情することが出来ますが、女性は男性の体を見れば性的興奮が呼び起こされるというものではありません。

一種のストーリーや、状況、ムードと呼ばれるような条件を必要とします。ですから、レディスコミックでは、男性向けのエロ漫画とは、ストーリーの運びもまったく違ったものになるわけです。

 

 重要なポイントは、まず、売買春にみられる男女の非対称性というのは、経済的条件によって作られたというよりも、まず男女のセクシャリティの非対称性に由来しているということ。

 

 2つ目に、買春後に男性が感じる(感じない人もいるかもしれませんが)ある種の「むなしさ」や「後悔」の念というのは、必ずしもお金で女性を買うことに対する「罪障感」とは違うということです。

この区別がなくて、容易に両者の感情を結び付けてしまう男性が存在するように思えるのですが、これは本質的に別のことです。

 私の考えでは、買春後の「むなしさ」や「後悔」というのは、相手の女性の全体性に到達できないということに、その本質がある。

たとえば男性が女性に惹かれる場合に、最初は相手の女性の顔かたちやスタイルのよさ、あるいはふと見せる表情に目を奪われる。

あるいは、シャンプーやコロンの香りに惹かれる。これが初発ですね。

これによって触発された男性の欲望はどこへ向かおうとするかというと、「見る」「嗅ぐ」から「触れる」へ向かおうとする。さらには、その女性が自分に対してどのように接してくれたら嬉しいとか、二人きりでどういう時間を持ちたいとか、そういう「欲望」へと進んで行く。

これを抽象的にいえば、相手の女性の全体性へ向かって手を伸ばそうとするわけです。

 

 もちろん常にそうなるというわけではなく、むしろこのような男性の欲望の筋道は、たいていはどこかで挫折します。ちょっと見とれただけで声もかけられないままに相手の女性が立ち去ってしまったとか、声をかけることは出来たけどその後の関係が全然進展しないとかですね。

 

 この点からいえば、買春やポルノ鑑賞というのは、「あらかじめ相手女性の全体性への到達が挫折することを定められた性的エロスの享受」だといえます。

 

 この場合、男性はその挫折をあらかじめ、意識的にせよ無意識的にせよ「知っている」はずなのですが、それでもなお求めざるを得ないという切実さがある。売買春や風俗産業、ポルノというのは、男性に宿命付けられたその「切実さ」を前提として成立しているわけです。

 

 強いて悪い言い方をすれば、女性の方が男性の「切実さ」につけ込んで金儲けをしているともいえるわけで、お金を払う方が強者だとは必ずしもいえません。むしろこの構造において「持たざる者」は男性の側なのです。

 

 といっても、もちろん私はここで、「男女のいずれが悪いか」という問いを立てようというのではありません。むしろ、そういう問いや前提を立てて志向の出発点とすることには意味がない、といいたいのです。

 

 私には、この種の男性の「切実さ」が罪悪だとは思えなくて(もちろん痴漢や強姦など、その「切実さ」を違法な手段で解消しようというのは罪悪です)、よいも悪いもなく「男性はそういう与件の下で生きている」という事実として受け止めるしかないのだと思います。

 

 もちろん理想的には、挫折なしに相手の全体性へと到達できるような女性とめぐり会えれば一番よいわけですが、誰もがそういう条件に恵まれるとは限りませんし、もしかしたらいずれそういう女性と出会うかも知れないとしても、それがいつのことだかわからない。 

とすれば、売春なり、その他の風俗店なり、ポルノなりが発生することは、一種の必然です。もちろん、前回にも書いたように、それが社会秩序を破壊するような形ではびこってはいけない。しかし、これは存在の是非の問題ではなく、運用の是非の問題であって、両者は別問題です。

と述べています。

 ここでは、神名女史は、男女のエロスの非対称と、売春の本質について語っています。

 男性は、女性の身体自体に発情できますが、女性は、その場の雰囲気や安心感や信頼感がなければ、なかなか、性的興奮を得られるものではありません。

女性の身体に発情できる男性は、すれ違った綺麗な女性に惹かれることがありますが、だいたいはその欲望は、挫折するものであり、女性の全体像に手が届くことはありません。

性風俗や売春は、その代償行為としてあるのであり、それは女性の全体像を獲得できないけども、お金を払ってその場だけのエロスを獲得するものです。

男性には、そのようにしてまでも、女性のエロスを獲得したい欲望があるのです。 

 

 神名女史は

 

厳密にいえばどんな相手であれ、他者の全体性に到達するということは、実はありえないのですが、「恋愛」というのは男女の双方が互いの全体性に到達することで融合を目指すようなものとして存在しています。

もちろん、そこには幻想性も含まれるのですが、しかし当の男女にとってはその幻想が「幻想」ではないものとして存在しているということも、「恋愛」には本質的ですね(だから場合によっては恋愛は、ある種の「狂気」という形をとることもあります)。

 

 一方、買春やポルノ鑑賞というのは、その到達を断念することが、あらかじめ「お約束」になっているわけです。「醒めることを前提に見る夢」といってもよくて、しかも男性の側もこの前提を、意識的にせよ無意識的にせよ「知っている」わけです(もちろん女性の側ははっきり意識しています)。

 

 「醒めることを前提に見る夢」だとわかっていても、男性は時として(人によってはしばしば;)そのような関係の中にも女性の性的エロスを求めざるを得ないことがある。

 これを「渇望」といってもいいですが、男性はその「渇望」に身心を支配されることがある。

 そういう男性を「強者」と呼んで済ませることができるかといえば、私は否定的な構えを取らざるを得ないということです。

売春はしばしば、男性の「経済的な優越性」によって女性を性的に支配する、とされますが、「客」である男性の中がすべて、風俗嬢よりも「経済的な優越性」を有しているということはあり得ません。

なけなしのお金を握りしめてでも、遊女や慰安婦や風俗嬢のお世話になりたいという男性は、昔も今もけっこう存在するはずです。

 

 経済的にもエロス的にも風俗嬢の方が「客」である男性より上だということは、決して珍しいことではないわけですから、売買春が「男性=強者=悪」から「女性=弱者=善」に対する差別だという図式は成立しません。

 

 これは「慰安所」に行く兵士も同じことで、応集した二等兵や一等兵が、高給取のはずはありません。

軍隊では兵食が出ますし、着るものも支給されます。もちろん兵舎もある。衣食住が用意されている上に、それとは別にたっぷりと現金が渡される軍隊なんかありません(現金に限らず軍票も同じことです。そうじゃないと占領地がインフレになってしまう)。

 

 したがって、当時の兵士は「慰安婦」に対して、経済的にもエロス的にも「弱者」だったと位置付けることしか出来ないわけです。

 「醒めることを前提に見る夢」だとわかっていても、なけなしのお金を握りしめてでも慰安婦お世話になりたかったという「渇望」があった。

 これを「加害者」と呼ぶのは、かなり無理があるのではないか、ということです。

と述べています。

 女性から見ると理解しがたい男性の性のあり方ですが、男性と女性でどちらが強者でどちらが弱者かとか、どっちが良くてどっちが悪いとはいえないのですね。

 


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