

(8)なぜ日本で大騒ぎになるのか
前述しましたように、どこの国の軍隊も、兵隊さんの相手をする女性なり慰安所は付き物であり、日本だけが特殊なわけではありません。それなのに、なぜ、日本でのみ、このような騒ぎになり、あげくに慰安婦への謝罪や慰謝料などということになるのでしょうか。
神名女史は、
これについては、社会学の橋爪大三郎氏が本質を突いた指摘をしていると思うのですが、それは、日本人は宗教的バックボーンがないので、社会と国家が分離せずに、国家が道徳の基準になっているようなところがある、というものです。
これは興味深い指摘だなと思ったのですが、キリスト教圏でもイスラム圏でも、まず社会があって、それとは別に自分たちの手で国家をこしらえた、という自覚がある。
道徳の基準は、国家ではなく社会や宗教の方にあるわけです。
政教分離が出来ていない場合には、むしろそれが国家・国法の基準として持ち込まれる。
でも、日本では最初からその区別がない…、というと言い過ぎかも知れませんが、まぁ、曖昧なわけです。
ですから日本人にとって、日本国の問題は、もろに自分の道徳問題や自我の問題に結び付いてしまう。
大日本帝国というのは日本民族の拡大された自我であり、過去の自分の姿であるわけです。
逆に日本国(戦後の日本)というのは縮小された自我で、歴史のことは知らなくていいとか、軍事はアメリカに任せておけばいいとか、自力救済していないわけです。
右翼と呼ばれる人たちは、過去の拡大された自我を取り戻そうとする人達で、とにかく「大日本帝国」や当時の日本軍と自己とを一体化させたがる。
逆に「従軍慰安婦問題」を立ち上げて騒ぐ左翼というのは、とにかく「過去の自分」を否定したい。
大日本帝国は悪の塊で、あれは私とは関係ない。そう言いたいわけです。
だから彼らは「歴史認識」や「謝罪」、「責任」ということをよく言うけれども、自分で責任を取るために何かしようとはしません。
「大日本帝国」やその後継である「日本国」に対して、常に「糾弾する側」に自分を置く。
そうすることで、自分の無罪を主張する。あわよくば、自分が「正義」の側にあるということまで認めさせたい。そういう病理があるわけです。
さらに言ってしまえば、右翼とは逆に、日本国の方を自分の自我のありように引き寄せることで、精神的に安定させようとする人々だということですね(戦争問題を女性問題に置きかえると、同じことがそのままフェミニストにも当てはまります。これが彼らの権力欲を構成する、動機面での構造です)。
だけど、私はこれらのいずれの道も選択する気にはなれなくて、欧米コンプレックスの裏返しのような「拡大された自我」に身を任せるのも、逆に「拡大された自我」を自分と無関係だと強迫的に思い込もうとするのも、どちらもバランスの悪い幼さだと思う。
その私の立場からいうと、いわゆる「従軍慰安婦」問題では、保守派の側に理があると思います。
なぜなら、保守派の反論というのは、「慰安婦」がどんな意味でも国家と無関係だとは言っていないんです。
ただ、国家が「誘拐」や「強制連行」をしたわけではないといっているに過ぎません。
と述べています。
わたしたちは、国家という基盤があって、そこに家庭や仕事があって日々の生活を送っていますが、わたしたちにとって国家とはどういう意味を持つものなのでしょうか。
戦争に負けた日本では、「あれが侵略戦争だった」「いや、資源のない日本は欧米に追い詰められてやむを得ず開戦した部分もあった」などと、こんにちでも解釈が分かれています。
日本では保守派と呼ばれる人が、必要以上に過去を美化し、「昔は公娼制度があったから、素人の女性は純潔だった」「昔は軍隊があったから男は男らしかった」と語ることがありますが、それらの大半は、「男らしい男がいた、女らしい女がいた」とする「美しい過去」と自分を重ね合わせているものに過ぎません。軟弱な男や女らしくない女性は、昔も今もいるのです。
かといって、自虐史観に走り「日本はアジアの人々を苦しめただけで、百害あって一利もない存在だった」とするのも良くありません。それは、「日本は悪かったけど、わたしは悪くない」と言っているのと同じことで、アジアの人たちのために責任をとって具体的な方策を講じるわけでもありません。
必要以上に過去を美化し、現代の状況を悪く思うこともよくないですし、かといって極端な自虐史観に走ることもバランスを欠いています。
まずは、わたしたち自身の、精神の成熟が求められています。