

○保守派をも洗脳するジェンダーフリー的男女同質論
西尾氏は、WiLL5月号で、
「天皇は神ではない。神を祭る祭祀継承者であり、いわば神主の代表である。天皇は伝統を所有しているのではなく、伝統に所有されている。天皇とその一族は国民の代表として伝統に対する謙虚な番人でなくてはならない」
と書いたうえで
「皇太子殿下と妃殿下にその自覚がはたしておありになるのか否か、それが今ここに問われている疑問であり、テーマである」
と書いています。
この「宮中祭祀」はいかにあるべきかをめぐって、国民の間でも議論が起きました。
宮中祭祀廃止論の主唱者である原武史氏は、
著書の「昭和天皇」において、宮中祭祀について
「こうした祭祀は、新嘗祭を除くほとんどが、宮中三殿と同じく明治になってつくられたもので、1908(明治41)年に皇室祭祀令で定められた」
とし、さらに、
「祭祀を『国体』の根幹と見なす後期水戸学の影響のもとに宮中祭祀が確立される」
として、この考えに基づいて、「現代」5月号で、
「お堀の外からは見えない宮中祭祀より、もっとダイレクトに、例えばネットカフェ難民(低所得のため住居がなくインターネットカフェで寝泊まりしている若者)やプレカリアート(就労の不安定な労働者を意味する造語)などを皇居に招いて食事を振る舞うなどの「救済」をしてはどうか」と提案しました。
この原氏の意見に対して、評論家の八木秀次氏は、産経新聞のコラムで
「最近、皇太子妃殿下のご病気の原因として宮中祭祀(さいし)に違和感を持たれていることが指摘され、そこから宮中祭祀の大幅な簡略化ないし廃止が唱えられるようになった。宮内庁も天皇・皇后両陛下の健康問題を理由に、少なくとも簡略化の方向にもっていきたい意向だ。(中略)
宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ。皇室から「祈り」を奪う動きは、本人の意識はともかく、新種の天皇制廃絶論と断ずる他はなかろう。」
と、原氏に反論しました。
そもそも、宮中祭祀は明治になってから作られたものというのは不正確な供述なのです。
たとえば元日の行事である「四方拝」は、平安時代初期、四方を拝して一年間の豊作と無病息災を祈る行事が起源で、かつては貴族や庶民の行事でしたが、今は宮中のみで行われております。
「天長節」は1868年(明治元年)に、国民の祝日として制定されましたが、その起源は、宝亀6年(775年)の光仁天皇の時代に由来します。
現代の宮中祭祀の大半は、大宝令や貞観儀式、延喜式などの条文に由来したものを、明治になってから、近代成文法として整備したものであって、新しく作り上げたものではありません。
天皇陛下の宗教的権威は、宮中祭祀を執り行うことに由来するのです。
皇太子妃殿下のご病気が長引いていらっしゃることで、八木氏もまた西尾氏とともに、保守系のオピニオン雑誌にて、東宮一家を批判しております。
原氏の宮中祭祀に対する認識が誤まっているとすれば、反論する八木氏のほうが正しいのでしょうか。
神名龍子女史は、
天皇による祭祀が明治以降の「創られた伝統」ではないことは明らかで、この点は八木氏の指摘の通りです。付け加えていうならば、
「最近、皇太子妃殿下のご病気の原因として宮中祭祀(さいし)に違和感を持たれていることが指摘され、そこから宮中祭祀の大幅な簡略化ないし廃止が唱えられるようになった 」
この点ですね。宮中祭祀の主体は本来「皇族」ではなく「天皇」です。だから皇后も皇太子も宮中祭祀の主体ではない。いわんや皇太子妃をや。
宮中祭祀とは、もともと天皇が一人で行なうものであって、この本質は今も変わりません。
中国の皇帝が「社稷」を祭るのも余人を排して単独で行なうのであり、また、日本においても「物忌み」とか「斎(いつき)」というものも、この点は同じです。
宮中祭祀においては他の皇族は単に「陪席」するに過ぎず、本来は陪席者がいないのが伝統なのですから、陪席者は不可欠な存在ではありません。むしろ、他の皇族が陪席することこそが、明治以降の「創られた伝統」に他なりません。
したがって、皇太子妃の問題を理由とした宮中祭祀廃止論こそ、明治以降の「創られた伝統」を根拠にしているということになるのであり、これでは話が逆です。
ただしこの点では、宮中祭祀に関連して皇太子妃を批判する自称「保守」論者も、同じ誤りを犯していることになります。
と述べています。
原氏が「宮中祭祀は明治以後の作られた伝統」という誤まった考えに基づいて宮中祭祀廃止論を唱えるのも問題ですが、本来天皇陛下お一人が主体である宮中祭祀に皇太子妃が参列しないことをもって妃殿下を批判する八木氏も、明治以後に作られた伝統を持ってして妃殿下を批判していることになり、どちらも宮中祭祀の本質からかけ離れた議論を展開していることになります。
宮中祭祀の本質について、保守系オピニオン誌「WiLL」の2008年7月号で、旧皇族の竹田恒泰氏は
(前略)天皇の本質は「祭り主」であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿である。しかし、それは天皇の話であって皇后や東宮妃の本質は「祭り主」ではない。
もちろん皇后陛下を始めとする皇族方が宮中祭祀に陪席あそばすことはあり、現在はそれが通例となっている。
ところが、それはあくまでも「祭り主」としてではなく、「付添い役」として陪席あそばすだけで、新嘗祭などに内閣総理大臣が陪席するのと同様である。
現在の宮中三殿でもそのように営まれている。もちろん大祭にあたって全皇族方が祭祀に陪席あそばすことは理想であろう。
しかし、天皇は「上御一人(かみごいちにん)であり、すべての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質であって、皇族の陪席を必要とするものではなく、また皇族の一方が陪席されないからといって完成しないものではない。
また、歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例がある。少なくとも皇后の名において行われる祭祀はなく、幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。
そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない。まして東宮妃であれば尚更である。
と述べて、宮中祭祀は、本来、天皇陛下お一人で完成させるものであるとしています。
宮中祭祀の中で特に重要とされる新嘗祭は、高天原で皇祖神の天照大神(アマレラスオオミカミ)が保食神(ウケモチノカミ)から五穀の種子を得て、狭田(さだ)、長田に播いて収穫し、これを元種としたものを、天孫降臨のさい、アマテラスオオミカミが元種を皇孫ニニギノミコトに授けたという記紀神話に由来します。
新嘗祭は、稲の元種を授けた皇祖神に感謝し、神とともに新穀を食べることで、男性である天皇陛下が女性であるアマテラスオオミカミを祭るものとして、祭り主は常に男性である天皇が主体とされています。
さらに古代に遡ると、祭られる神は、「ムスビの神」、もしくは「穀霊」とされ、生産力や生殖力を神格化した観念神であったとされます。子を生む力は女性にあることから、この穀霊は女性とされ、そこからも女性である穀霊を祭るのは男性である天皇が主体とされ、女帝は例外的な存在であったとされています。
保守系オピニオン誌の「諸君」7月号でも、皇太子妃への批判が見られ、保守派論客として知られる中西輝政氏は
「ただ、一点揺るがせにできない重大問題は、同妃(皇太子妃)が宮中祭祀のお勤めに全く耐え得ない事情があるかに伝えられることである。
もし万々一、このことが真実であるなら、ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき問題であると言わざるを得ない。
(中略)もし万一、皇太子妃をめぐる右のごとき問題が今後も永続的に続くのであれば、今上陛下のご高齢を慮り皇室の永続を願う立場から敢えて臣下の分を超えて申し上げたい。同妃の皇后位継承は再考の対象とされなければならぬ、と」
と述べて、皇太子妃が皇后になった暁に宮中祭祀に出席できない状況が続くのであれば、皇后位継承を再考すべき(つまり、妃殿下が離婚するか、皇太子殿下が皇位を継承しないこと)としています。
また、同誌には八木秀次氏も寄稿しており、
「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上している。
皇室典範には、『皇嗣に精神若しくは身体に不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、・・・・皇位継承の順位を変えることができる』(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは、「重大な事故」に当たるだろう。」
と述べて、現皇太子が天皇に即位しても、宮中祭祀をしないのであれば、皇位継承の順位を変えることも検討すべき(つまり、皇太子殿下が天皇に即位しないこと)としています。
現皇太子殿下が宮中祭祀に参列しない、という情報を、わたしたちは持っていません。
ということは、皇太子妃殿下のご病気が長引いたとしても、皇太子殿下が天皇に即位した暁に、「祭祀をしない天皇」が誕生するということは、現時点で考えることができません。
そして、宮中祭祀の主体は天皇陛下お一人であり、皇后になられた妃殿下のご病気が長引いたとしても、それは天皇の本質に何ら関係のないことなのです。
それなのに、皇太子殿下や皇太子妃殿下が反論できないお立場であるのに、ご病気の件をもって「皇位継承を見直すべきだ」「離婚すべきだ」と批判するのは、宮中祭祀の本質を見誤っていることになります。
宮中祭祀は明治以後の作られた伝統であり、日本はすでに農業国ではなくサラリーマンが多いのだから、宮中祭祀をする意味はない、という廃止論も、宮中祭祀は皇室全体で行うものだから、祭祀に参列できないご病気の皇太子妃が皇后にすべきではなく、皇太子殿下を即位させるべきではない、という廃太子論も、共に、伝統を誤まって解釈しているのです。
こうした皇太子妃への批判が相次ぐ背景には、今上天皇と皇后陛下がお揃いで公務に出席する姿に重なって、女性も社会進出すべきだ、という男女平等の概念が、保守派の人たちに共有され、一種の専業主婦批判に似たものだと解釈されます。
天皇には祭り主としての本質があるが、皇后にはそれがない、というのは、男性と女性とで果たす役割が違うことを意味しています。
しかし、昨今の「女性も男性と同じように社会進出すべきだ」というジェンダーフリー的男女同質論は、保守派とされる人たちにも影響を与え、祭祀に参列できない皇太子妃は皇后にすべきではない、つまり、皇太子は天皇に即位すべきではない、という論理にまで発展しているのです。
皇太子殿下も妃殿下も、このような誹謗中傷に対して、反論する場を持ちません。このようなお立場の方に言いたい放題言うのは、卑怯の一語に尽きるというものです。