天皇陛下はなぜ尊敬されるのか(1)

○天皇陛下はなぜ尊敬されるのか

 1993年、「全力でお守りします」というプロポーズの言葉で、皇太子殿下と雅子さまはご成婚なさいました。ご誠実でお優しい人柄のにじみ出た皇太子殿下と美しく才媛の雅子さまのご成婚で、国中が祝賀ムードになりました。

内親王が誕生なさいましたが、お世継ぎとなるべき男児は誕生せず、プレッシャーから妃殿下がご病気になるということがありました。

 

さらに、2004年、皇太子殿下が

欧州歴訪前の記者会見で、

「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」

とご発言なさって、外務省のキャリアウーマンだった妃殿下と宮内庁の間に齟齬をきたしていることを示唆なさったことが、国民の間に大きな反響を呼びました。

 

2006年に秋篠宮殿下に親王が誕生するまで、皇位継承者たる男児がなかなか生まれないことを受けて、国会でも、女性天皇を認めるかどうかの論議がなされ、国民の間でも賛否が分かれました。

日本の皇室は、125代の天皇が断絶することなく男系によって皇位を継承し、その淵源が神話にさかのぼるということが「伝統」とされています。

女性天皇の子孫が次期天皇になると、今まで受け継がれたY遺伝子が断絶し、伝統が損なわれ、皇室が崩壊するとして、反対する人々もいました。

 

その頃から、「諸君」「正論」などの保守系のオピニオン雑誌では、

「皇太子殿下は病気でご公務をお休みがちの妃殿下を甘やかしているのではないか」などと「諫言」する内容の記事が載るようになりました。

 2008年、オピニオン誌「WILL」の5月号・6月号でも、保守系の論客である西尾幹二氏なる人物が、

「皇室の人たちは、宮中祭祀継承者であり、伝統を守るべき存在であるのに、皇太子殿下および妃殿下には、その自覚がない」という内容の記事を載せ、これも反響を呼びました。

 西尾氏は、

「雅子妃は国連大学に足繁く出向いているらしい。国連大学というと何か立派な場所のように思えるかもしれないが、反日左翼イデオローグの集会の場と聞いている」

として、

「妃殿下は病気がすでに治っていて、宮中祭祀のような公務を拒否するのは、日教組が君が代を拒否するように、何かのイデオロギーによるのではないか」

と書いています。これもまた、反響を呼びました。いったい、どうしたことでしょうか。

 神名女史は、

  そもそも皇室批判というのは、女性週刊誌の専売特許のようなものだったのです。女性週刊誌につきもののゴシップ記事の、その定番のひとつですね。
 もちろん、そんなものを真に受けて皇室批判をする自称「保守派」なんかいなかったでしょう。

 ところが近年では保守系の雑誌に、女性週刊誌と同レベルの皇室批判の記事が、しばしば載っています。皇室の問題よりも、こうした一部の自称「保守派」の低劣化の方が、よほど問題だと思います。

  
「皇室問題」は、けっして、雅子様に始まるものではなくて、以前から宮中にあるものだったのです。
 皇后陛下が皇室史上初の「民間」からのお輿入れであり、皇太子殿下のご誕生のときに皇室の慣習である宮中御産殿での出産を止めて、乳母制度、傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手でお育てになるなどしたわけです。
 それで宮中の女官達による「いじめ」の問題が起きて、これは女性週刊誌では長い間、一つの定番記事でもあったのですね。
 

 つまり、革新的な皇族と保守的な宮中役人(女官達を含む)という図式は、これは以前からあるものなのです。
問題の主役が美智子皇后陛下から雅子妃殿下に代替わりした、という話なのだと思います。
 こう書くと思想的に真面目な人からは、「問題を卑小化するな」と怒られるでしょうけど、しかし、これは「国家にとっての皇室」の問題というよりも、宮中政治の問題、宮中役人の前例主義との確執の問題だと思います。
 そういう問題を「伝統」というタームで捉えても、宮中役人の前例主義に大義名分を与える言説にしかならないのですね。

 誤解のないように書いておきますが、私は女性週刊誌の皇室ゴシップ記事に目くじらを立てようとは思いません。
真に受けない代わりに、まともに取り上げて批判する気にもなれない。
 なぜかというと、あれは昔から女性に特有の話題のあり方の一類型だからです。
 女性の場合、子供の頃から「誰と誰の関係はあやしい」とかそんな話題が大好きで、芸能界や皇室のゴシップ記事もそういった女性の需要の延長上に生まれたものです。
 今の皇后も皇太子妃の時代に、宮中でいじめられているとかそんな「嫁姑問題」みたいな記事がたくさんあったでしょう。そんな記事に、特に政治的な意味合いがあるはずもなく、毎回、その場その場で読み捨てられ「消費」されるに過ぎません。

 
 ところが自称「保守派」の皇室批判というのは、女性週刊誌のゴシップ記事と同レベルの話題に政治性を持たせようとするわけです。それだけでなく、女性週刊誌の匿名記事と違って、「自分はこんなに見識があるんだぞ」と顕示してもみせる。 

と述べています。

皇太子殿下および妃殿下への批判記事には、必ず「伝統」という言葉が使われます。

 保守系のオピニオン雑誌「正論」の2004年8月号でも、「皇太子殿下への諫言」と称して、八木秀次氏はしかし伝統やしきたりこそが皇族を皇族たらしめているものではないのか。一体、殿下はどうなさったのだろう」

と述べています。

 また、「WiLL」の2008年6月号で、

哲学者でもある西尾幹二氏は、皇室は伝統だとして、

「伝統とは意識することの出来ない何かである。 人は伝統を越えることができないし、客観化することも出来ない。

しかし、矛盾した言い方になるが、意識して伝統に近づこうとしない限り、伝統はするりとすべり落ちてどこかに行ってしまう」

と書いています。

 これは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 神名女史は、

 
 ならば西尾氏は、皇室の伝統について皇太子よりも知っていると言っているわけですね。 
 
その自信がどこから出てくるのか不明ですが、私から見れば西尾氏のいう「伝統」は伝統でも何でもなくて、むしろポストモダンの主張に近いのです。

 ポストモダンというのは一見すると「真理」を否定するわけですが、その結果どうなるかというと、「この世界は、あれでもない、これでもない…」という形で、「世界」を言い表しているわけです。
 だけどこれは「この世界は○○である」ということを、否定形を使っていっているに過ぎません。
そして、他者の主張に対してはすべて「世界」はそんなものではないと否定することができる。
 西尾氏の言う「伝統」もこれと同じで、「伝統」というものをひたすら否定形のみによって規定する。この方法を使うと、他者(皇族も含め)に対して、いくらでもイチャモンをつけられるのです。「それは伝統ではない」と。
 
 だからこれは、たとえばポストモダンの手法を使うフェミニストと、まったく同じ手口なんですね。上野千鶴子なんかも、真っ向から反論出来ない批判をされると「それだけがフェミニズムではない、お前はフェミニズムを知らない」といって逃げるわけですね。
 では正しいフェミニズムの理解はどんなものかといえば、それは絶対に口にしない。

西尾氏の言説は「矛盾した言い方になるが」ではなくて、単なる矛盾です。

「意識することの出来ない何かである」伝統に、貴方はどうやって意識して近付こうとしたのか、ということになるのです。

 彼のいうことは、そこらのフェミニストもそうですけど、「説明も証明も出来ないが私は真理をつかんでいる」というのと同じことなのです。

と述べています。


 果たして、西尾氏も、では「伝統とは何か」という点になると、はっきり述べることができず、2008年6月号の「WiLL」では、

「天皇制の意義とは何なのか。再び問うが、よく考えれば、私も十分に答え得ていない。正面からそう問われて確信を持って答えられる人は多くはいないはずである。(中略)

 うまく答えられない人、迷っている人、それがむしろ自然であると私は思う」

と曖昧な言説に逃げ、あろうことか、自分以外の人も、「天皇制の意義とは何か」について、確信を持って答えられないはずだ、としています。

 相手が皇室の方であれ、誰であれ、批判記事を書くとなれば、曖昧な言説に逃げるのではなく、徹底的に調べて「皇室とはこういうものだ」と確信を持ってから、発言するのが筋というものではないでしょうか。


 ちなみに、「ポストモダン思想」とは、本来的にはマルクス主義批判であった近代主義批判が、物質文明や資本主義、大量消費文化をも批判する立場に立つうちに、自分では何も主張できずに、相対主義に陥り、あれも否定し、これも否定する状態を指します。

 マルクス主義を批判し、資本主義も批判するうちに、あれもダメ、これもダメ、という状態になりますが、しかし、何かしらを主張しなければなりませんので、主張の方向性としては、理論を持ったマルクス主義の残滓を引っ張るしかないので、ポストモダン思想は、左傾化するのです。

 しかし、あれこれ否定はしますが、「では皇室の意義とは何か」と具体的に聞かれると、はっきりした答えが返ってこないことが多いのです。

 

 天皇陛下及び皇室は、なぜ、国民から敬愛されるのでしょうか。
 天皇陛下そのものが素晴らしい人格者であり、理想の家族を体現しているように見えるからでしょうか。
 それとも、125代の天皇が断絶することなく男系によって皇位を継承し、Y染色体が受け継がれ、その淵源が神話にさかのぼるという「伝統」を有しているからでしょうか。


 神名女史はその理由を、

  天皇というのは、簡単にいえば日本人全体を血縁関係に見たてた場合の「総本家」なんです。
 これは古事記や日本書紀を見ればわかることですが、なにも皇室だけが「天孫」であるわけではなくて、日本人全体が「天孫民族」なわけですね。

 
  誤解のないように書いておきますが、まずこれは日本人が他の国の人達よりも偉いという意味ではありません。
 そもそも「天」とか「神」と言っても、日本でいう「神」は、キリスト教に見られるような唯一絶対にして全知全能の「神」ではありません。
 ギリシャ神話でもそうですが、争ったり間違えたりもする不完全な存在です。そういう意味ではもともと「人間」に近い存在なわけです。
 しかし人間と完全にイコールではなく、超自然的な力を持っている、あるいは持っていたような存在ですね。

 
 もうひとつは、日本人がそういう神の子孫だということが「史実」だというのでもありません。
 しかし神話というのは、史実ではないからといって、即座に「事実無根だ」というものでもありません。そこにはやはり過去の(古代の)経緯が抽象的に語られてはいる。それが「神話」ですね。

 
 その「神話」では、日本人全体がいわば大家族なのです。そして皇室は日本人全体の総本家であり、天皇はその総本家の家長である。だから日本人全体のことを心配する。
 もちろんこれはフィクションです。大家族といっても、擬似血縁関係に過ぎません。
 しかし、日本人がそういう意識の下にまとまり続けて来たということ自体は「史実」でしょう。
 だから日本人同士の関係も、天皇との関係(距離)で決まった。たとえば昔なら、「従何位」などを授かることで、自分が何者であるかを他者に示したわけです。
 もっと抽象的にいうと、天皇とは、「日本社会の秩序の基準」なんですね。

  
 右翼の中には今の憲法を否定する人もいますけど、しかし今の憲法の第一条だって、 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」というのは、そういう「天皇の本質」を上手く表現していると思います。  

 ルソーが『社会契約論』で最後から2つ目の章で、「国家というのはけっして理屈だけではまとまらない」と指摘しました。
  
 国民が「われわれ」という意識を持ってまとまるためには、その根底となるようなエートス(性格の持続的な面、ある民族や社会集団にゆきわたっている慣習・価値観・雰囲気など)を共有していることが必要なのです。

 
 そのエートスは、国により、民族によって異なるけれども、やはり日本にも「日本人は昔からこの列島でこのようにして存続してきた」という意識があるわけです。  
 
 それは単に「歴史」とも呼ばれますが、国家をまとめるためのエートスとしては、「皆がてんでバラバラに争いあってきた歴史」というより、「このようにまとまり続けて来た歴史」という面の方を強く意識する必要があります。
 日本の歴史は、天皇や皇室との関わりを抜きにして、史実だけ取り上げることはできないのです。
 源平の争いだって、織田信長の上洛だってそうです。豊臣秀吉が関白になったり、徳川家康が幕府を開いたりするのも、天皇抜きでは説明できません。 
 そういう歴史はそれとして細かく学ぶ必要があるのだけれども、すごく簡単にいってしまうと天皇というのは「日本人が日本人としてまとまるエートス」のシンボル(象徴)なのですね。

 天皇が「日本社会の秩序の基準」であるということの本質を、さらに抽象的にいっても、そういうことになる。
 
 
 そして自分もその「日本人としてのまとまり」の中に生れ落ち、存在している。それは意識的であれ、無意識的であれ、実は誰もが「知っている」わけです。  

 これから先、それを否定したいという人もいるでしょうが、「否定したい」ということは「今はそれがある」ということであり、そのこと自体は認めざるを得ないはずなのです。

  
 だから天皇や皇室に対する尊敬とか敬愛は、必ずしも厳密にすべての日本人が持っているとはいえませんが、では「天皇」以上にすべての日本人が共有できるような「日本人が日本人としてまとまるエートス」を、「天皇」とは別に用意できるかというと、少なくともこれまでのところ、誰も成功しているとは言えない。
 有史以来そんなものはなかったのです。上に引用した憲法第一条の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」というのは、そういう意味でもあるわけです。
 

 要約すれば、125代続いた「伝統」だから尊敬されるわけではないのです。これは話が逆であり、「天皇」にとって代わるような「日本人のエートス」がなくて、日本人が天皇に対して、ある種の価値を共有してきたからこそ、125代も続いたのです。

 Y染色体はもっとどうでもよい話で、そもそも昔の日本人がそんなものを知っているはずがありません。それに皇室の先祖は、Y染色体なんか持っているはずがない女性神(天照大神)です。
  
誰かのY染色体を引き継いでいるから尊敬されるのか、それとも天照大神の子孫だから(という信憑を日本人が共有してきたから)尊敬されるのか、ちょっと考えればわかりそうなものです。
 人格もあまり関係なくて、歴史を見れば謀反を起こすような人だっていたわけですね。

 
 「天皇陛下はなぜ敬愛されるか」の答えは、「日本人が日本人であること」のシンボルであり、「日本の秩序の基準」だから、ということです。
 天皇陛下とは、「他に代わる存在がない国家に不可欠なエートス」なのです。 

と述べて、敬愛される理由を明確に分析しています。


 天皇陛下が、「他に代わる存在がない国家に不可欠なエートス」であるから敬愛されるのであり、国民が天皇にそのような価値観を持ち続けてきた「歴史」こそが伝統なのです。


 ですから、皇太子殿下がどうしたこうしたと批判することは、伝統とは何の関係もないことであり、事実、西尾氏自身が皇室の意義を明確に答えられません。

日本人が、皇室に対して、全員がまとまることができる共通の価値観を持ち続けたからこそ、皇室は代々存続しえたのです。

伝統は皇室が体現するものではなく、国民がこのような価値観を2000年持ち続けたからこそ、皇室は今も存続するのです。


 今、日本人は、このような共通の価値観を皇室に見出しえないでいるからこそ、このような迷いを皇室に投影しているのです。

 皇室の危機とは、皇室そのものにあるのではなく、皇室に対して日本人全員がまとまるような価値観を見失いつつある国民の側にこそあるのです。


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